和銅 7年(714) 6月、遂に首皇子は元服した。
それに伴う大げさな儀式と祝宴は、否応なく周囲に首が皇位継承者であることを印象づけた。

霊亀 1年(715)の元明天皇の勅によって、吉備内親王(元明の娘・長屋王の正妻)の子供たちが、正式に皇孫の待遇をうけるようになった。
子は、膳手(かしわで)・葛木(かずらき)・鉤取(かぎとり)。
子供たちは本来、長屋王の子として3世王となるが、女系をとり、吉備の子とした。
皇孫(2世)と3世では、朝廷から乳母が官給されるか否か、蔭位(おんい)の制によって、任官のスタートが従四位下か従五位下かに差がある。
これによって、成人の後、有利な条件のもとに官界入りできる。

前年、大伴安麻呂は、世を去っていた。
太宰の帥の兼任を解き、都に戻らせたのも、不比等の独断専行に対抗させるためだった。
じじつ、安麻呂は右大臣不比等に次ぐ唯一人の大納言として、元明の意思を代弁し、廟議の場では力いっぱいの活躍をみせた。
その安麻呂が世を去ったとき、元明天皇は、正三位の彼に従二位を追贈した。
安麻呂の後は息子の旅人♪が継いでいる。
が、まだまだ従四位上の武官だった。 5月に、中務卿に任ぜられた。

6月、天武天皇第4子の長親王が、 7月、第5子の知太政官事穂積(ほづみ)親王が続いて世を去った。

電撃的な速さで、元明の譲位が行なわれた。
さすがの不比等も足を掬われた。
長・穂積の天武系の皇子の死によって、周囲からの干渉が少なくなった機を捉え、元明天皇は、みごとに
藤原系の皇子の即位をこばんだのだ。
元明55才。元正36才。首15才。
9月 2日の詔は言う。
9年間の政務に疲労した。
「神器ヲ皇太子ニ譲ラント欲スレドモ、年歯幼稚ニシテ未ダ深宮ヲ離レズ。・・・一品氷高内親王ハ
早ク符祥ニ叶ヒ、夙ニ徳音ヲ彰ス。・・・沈静婉レン・・・今皇帝ノ位ヲ内親王ニ伝フ」