文武天皇死後の翌月、 707年 2月、阿閉皇女(あへ)即位。47才。8年間。
元明天皇です。
異母姉持統天皇の歩んだ道を、彼女もまた歩むことになる。
宣命「現つ神と大八州しろしめす倭根子天皇が『不改の常典』を守って即位する」と発表。
嫡子・首(おびと・聖武)は、まだ 8才なのでやむをえず中継として自分が即位するとした。
つまり、首皇子の皇位継承権を、あらためて強調した。
即位にあたって、歌を詠った。
♪ますらをの 鞆の音すなり もののふの 大臣(おおまえつきみ)楯立つらしも (元明・47才)
楯は、敵の矢・刀・矛などを防ぐ武具。
8年前の、持統天皇即位式の際、石上(物部)麻呂が大盾を立てた。
元明天皇も、同じものものしい儀式で、即位式を行なった。
元明天皇の思いに応じ、同母姉の御名部皇女(みなべ)は詠った。
♪我が大君 物な思ほしそ 皇神(すめかみ)の 副へて賜へる 我がなけなくに (御名部・50才)
(わが大君よ、決して御懸念には及びません。神さまの命をうけて、あなたのお後を継ぐ者として、
ほら、ごらんの通り私がおります)
当時、首皇子は8才、天武の皇子は穂積皇子・長皇子など4人もあり、元明天皇が即位することは、
皇太妃という地位のもろさがあって、不安があった。
和銅元年(708)、元明女帝の治世は始まった。
首脳は、右大臣、石上麻呂(物部)70才くらい。
大納言、藤原不比等(首皇子の祖父)50才くらい。・大伴安麻呂(大宰府帥兼任)
授刀舎人の制度を新設した。(元明天皇の親衛隊)
正月早々に、武蔵国から、朗報がもたらされた。
秩父郡から自然銅が産出したという。
早速、年号を「和銅」と改め、恩赦も行なった。
武蔵国の庸と、秩父郡の調・庸を免じた。
3月、石川麻呂を左大臣に。藤原不比等を右大臣に。
大伴安麻呂を九州から呼び戻し、太宰帥は粟田真人に。
和銅 2年(709)春、左大弁巨勢麻呂を陸奥鎮東将軍に、
民部大輔佐伯石湯(いわゆ)を征越後蝦夷(かい)将軍に任命し、
東海・東山・北陸諸国の兵をさずけて、蝦夷征討に発遣した。
前年の秋、越後の国司が蝦夷の住んでいた地に、出羽郡を新設し、統治しようとしたため、こぜり合いが
起こったから。
そして、3年後、出羽郡に陸奥国の最上・置賜(おいたみ・現在の山形県の大半)を加えて、出羽国を
新設した。
藤原京は、大宝律令がととのい、役所の数も役人の数も増え、手狭になってきた。
元明天皇です。
異母姉持統天皇の歩んだ道を、彼女もまた歩むことになる。
宣命「現つ神と大八州しろしめす倭根子天皇が『不改の常典』を守って即位する」と発表。
嫡子・首(おびと・聖武)は、まだ 8才なのでやむをえず中継として自分が即位するとした。
つまり、首皇子の皇位継承権を、あらためて強調した。
即位にあたって、歌を詠った。
♪ますらをの 鞆の音すなり もののふの 大臣(おおまえつきみ)楯立つらしも (元明・47才)
楯は、敵の矢・刀・矛などを防ぐ武具。
8年前の、持統天皇即位式の際、石上(物部)麻呂が大盾を立てた。
元明天皇も、同じものものしい儀式で、即位式を行なった。
元明天皇の思いに応じ、同母姉の御名部皇女(みなべ)は詠った。
♪我が大君 物な思ほしそ 皇神(すめかみ)の 副へて賜へる 我がなけなくに (御名部・50才)
(わが大君よ、決して御懸念には及びません。神さまの命をうけて、あなたのお後を継ぐ者として、
ほら、ごらんの通り私がおります)
当時、首皇子は8才、天武の皇子は穂積皇子・長皇子など4人もあり、元明天皇が即位することは、
皇太妃という地位のもろさがあって、不安があった。
和銅元年(708)、元明女帝の治世は始まった。
首脳は、右大臣、石上麻呂(物部)70才くらい。
大納言、藤原不比等(首皇子の祖父)50才くらい。・大伴安麻呂(大宰府帥兼任)
授刀舎人の制度を新設した。(元明天皇の親衛隊)
正月早々に、武蔵国から、朗報がもたらされた。
秩父郡から自然銅が産出したという。
早速、年号を「和銅」と改め、恩赦も行なった。
武蔵国の庸と、秩父郡の調・庸を免じた。
3月、石川麻呂を左大臣に。藤原不比等を右大臣に。
大伴安麻呂を九州から呼び戻し、太宰帥は粟田真人に。
和銅 2年(709)春、左大弁巨勢麻呂を陸奥鎮東将軍に、
民部大輔佐伯石湯(いわゆ)を征越後蝦夷(かい)将軍に任命し、
東海・東山・北陸諸国の兵をさずけて、蝦夷征討に発遣した。
前年の秋、越後の国司が蝦夷の住んでいた地に、出羽郡を新設し、統治しようとしたため、こぜり合いが
起こったから。
そして、3年後、出羽郡に陸奥国の最上・置賜(おいたみ・現在の山形県の大半)を加えて、出羽国を
新設した。
藤原京は、大宝律令がととのい、役所の数も役人の数も増え、手狭になってきた。