持統 3年(689)、皇太子・草壁皇子が28才の若さで、突然病死してしまった。
人々は、大津皇子の呪いだとささやいた。
その翌年、天武天皇の死から、約4年間称制を行なっていた皇后が即位した。
持統天皇です。
天武天皇の御子たちではなく、皇后自ら即位したのは、草壁の子・軽皇子(かるのみこ)を後継者に、
という狙いがあったから。
「さあ、おいで。私の孫や。将来は、そなたが帝になるのですよ。それまでは、私が......。きりり!」

一方で、持統天皇は自身の強靭な後継政策に対して、高まった不満を抑えるために、高市皇子を
太政大臣とした。
高市皇子は、『万葉集』で、「後皇子尊」と「尊」の字を付けて呼ばれている。
『日本書紀』持統紀10年の条にも見え、長屋王家木簡にも、「後皇子命」とある。
これは、高市皇子が、準皇太子扱いだったことを示す。

<藤原不比等>
藤原鎌足の次男。
長男は、定恵(じょうえ)。鎌足は、孝徳天皇から妊娠した阿倍小足姫をいただいた。
定恵を仏門に入れ、11才で、命がけの旅、遣唐使にやった。鎌足の愛は定恵になかった。
定恵がもし孝徳の子だったら、鎌足の足を引っ張ることになるので外に追いやった。
鎌足は、天智からも安見児と鏡王女を下賜されている。
不比等の母が安見児なら、父は天智かもしれない。
659年に生まれた不比等は、「変に備えて山背の田辺史大隈に住まわせた」(『尊卑分脈』)
幼児の不比等を山科に避難させている。田辺氏は百済系渡来人。
壬申の乱で、近江朝側の中臣金の軍事将軍が、田辺小隅(をすみ)だった。(大隈と親子or兄弟)
だから、不比等は、天武政権下では、芽の出ようがなかった。
686年、持統天皇の時代になって情勢が変わった。
持統天皇は、中臣金の弟、中臣連大嶋を、秘書官長とした。
大嶋は、草壁皇子のための寺を建立した。また、大津皇子殺害のときは、軍司長官として、兵を率い大津皇子の邸を包囲した。不比等はこの大嶋の縁故から、持統天皇に目をかけられた。
もし、不比等が天智の子なら、持統天皇とは異母姉弟になる。
持統天皇は、不比等を我が子草壁の学問の師にした。
不比等は、黒作懸佩刀(くろつくりかきはきのたち)を草壁から貰った。
草壁が28才で亡くなると、文武に献じ、文武が死ぬときは不比等に返し、不比等はそれを聖武に献じた。
不比等は、持統天皇・文武天皇・聖武天皇から、厚く信用されていた。
ーーー出世のために不比等が選んだ女性ーーー
無位無官の時代に、
最初の妻は、蘇我倉山田石川麻呂の弟、連子の娘・娼子(しょうし)。不比等20才前後。
武智麻呂・房前・宇合を生む。
次に、名門加茂氏の娘・加茂比売を妻とし、宮子と長娥子を生む。
出世の手がかりに、
新田部皇子の母(天武の未亡人)の五百重娘(鎌足の娘)を妻とし、4男の麻呂を生む。凄い!
新田部皇子の義父となり、重臣たちに睨みをきかしたでしょう。
県犬養連の娘・三千代を妻とする。三千代は人妻。夫は太宰帥出張中の美努王。しかも3人の子持ち。
葛城王(のちの橘諸兄)・佐為王・牟漏女王(房前の妻となる)。
この三千代との間に生まれたのが安宿姫(のちの光明皇后)。
不比等は、女性を利用してパワーアップしていった。