『日本書紀』に、壬申の乱の経過がくわしく書かれているのは、従軍した兵士の日記をもとに、編纂されているからです。

671年 6月29日、大和に留まっていた大海人方の大伴吹負(ふけい)が挙兵して、近江朝軍と激突した。
不破に本陣を置いていた大海人皇子は、大和での動きに呼応して、
7月 2日、大和救援軍と近江へ直接侵攻する軍を派兵。大津宮を包囲作戦にでた。
大和へ向かった軍勢は、大伴吹負のピンチを救い、飛鳥古京を死守。
直接近江へ向かった軍勢も、連戦連勝で進軍を続けた。
旗印には、天武天皇は自らを漢の高祖に擬して、赤色を使った。
『日本書紀』には、近江方と区別するために、衣の上に赤色を付けたとある。
『古事記』には、赤旗を用いたとある。
『万葉集』では、柿本人麿が、高市皇子挽歌の中で、「死ぬなら死ねとばかりに、命も惜しまず、戦っている最中に、渡会の伊勢の神宮から、神風で、敵を混乱させた。」と歌っている。
神様まで、天武天皇に味方した。

一方、連戦連敗の近江朝。
敗因は、豪族たちがまとまりきれていない点にあった。
近江方面へ送った軍では内乱が起こり、美濃へ向かった軍隊は足並みが乱れたため侵攻が遅れ、敗退した。
大海人方の快進撃と、近江朝の後退に次ぐ後退の後、
7月22日、ついに大友皇子は、自ら軍を率いて出陣。
決戦の舞台は、瀬田川にかかる瀬田橋だった。
両軍は、橋を挟んで向かい合い、激闘が繰り広げられた。
やがて、大海人方が、近江朝軍の前線を破ると、近江朝軍は、総崩れになった。

7月 2日○<犬上川の戦い>
    不破を攻撃しようと編成され、山部王に率いられた近江朝軍は、内部分列を起こし、山部王も
    武将に殺害されてしまう。高市皇子の勝ち!

7月 4日×<乃楽山の戦い>
     大伴吹負は、 7月 1日より乃楽山に駐屯していたが、大野果安に破れ、遁走する。
     大野果安(近江朝)は、追撃を試みるが、伏兵による攻撃を警戒して撤退する。

7月 5日×<倉歴の戦い>
     田辺小隅(近江朝)の夜襲を受けて、田中足麻呂敗走。

7月 6日○<箸墓の戦い>
     三手に別れて箸墓古墳付近の街道で、両軍が激突。
     大伴吹負は、苦戦するが、味方の置始兎(おきそめのうさぎ)の助けを受けて、
     犬養五十君(近江朝)を破る。
     甲斐の勇者たちよ、今だっ、つっこめえいっ!

7月 6日○<荊萩野の戦い>
     勢いに乗る田辺小隅(近江朝)の襲撃を、多品治が撃退。

7月 7日○<息長横河の戦い>
     村国男依、境部薬(近江朝)を斬る。

7月 9日○<鳥籠山の戦い>
     村国男依、秦友足(近江朝)を斬る。

7月13日○<安河の戦い>
     村国男依、社戸大口と土師千鳥(近江朝)を捕虜とする。

7月22日○<瀬田の戦い>
     近江朝は、大友皇子に率いられ、決戦を挑む。
     最も激しかった瀬田川の合戦では、「旗は野を蔽い、埃塵天に連なり、鉦鼓(しょうこ)の
     音は数十里に轟き、大弓は発射され、矢の降るごと雨の如くであった」(『紀』)
     近江朝は智尊が奮戦し、村国男依軍に瀬田橋を渡らせなかったが、大分稚臣が鎧を着込んで
     突撃したためやぶられ、大友皇子は敗走する。

7月23日○<大津京陥落>
     村国男依、犬養五十君を撃破。大友皇子は、山前(やまさき)に逃れるも、自害して果てる。
7月24日、左右大臣は、捕獲され、近江朝廷は滅亡。

わずか1カ月ばかりの戦いで、大海人皇子は近江朝廷をたおした。
この戦いは、壬申の年に起こったので、「壬申の乱」という。
壬申の年とは、中国の昔の暦による年の呼び名。60年に1度、同じ呼び名の年が来る。
大海人皇子は、野上の行宮で戦後処理を行なう。
大海人皇子は、右大臣・中臣金だけを斬り、左大臣・蘇我赤兄を流刑にする。
大海人皇子は、都を飛鳥に戻して、即位する。