さぁて、初ブログには何を書きましょうか。
とりあえずは、僕がブログを描く理由ですね。
それはこのブログのタイトルにもなっているように、思考⇔言語の互換性の向上のためです。
ぼくの尊敬する人がむかし、『言語が思考を規定する』と述べていました。
これは簡単に言いますと、日本語を話すわれわれ日本人と英語を話すアメリカ人では思考が異なってくる、といったものです。
残念ながらぼくは英語はおろか独語、仏語、C言語もしゃべれませんので、この説が真実であるかは実感しがたいのですが、なんとなく納得もできます。
皆さんが脳内で考え事をするとき、それは主に日本語によって行われていると思います。そうやって、日本語という言語をパーツにして論理や思考を組み立てていくわけですが、そのパーツが異なれば完成品も異なったものになるのは想像に難くないはずです。
この説を正しいとするならば、次の仮説も成り立つと思います。
『言葉をたくさん知っている人とあまり知らない人とでは思考が異なってくる』
たとえば一枚の絵を描くとして、たくさんの種類の筆や絵の具を持っていたほうが、より緻密に、表現豊かな絵が描けると思います。
同様に、私たちが言語を用いて論理を組み立てるとき、そこにたくさんのパーツ=言葉があれば複雑かつクリアな思考が可能ですが、そこに乏しいパーツしかなければ平凡かつまとまりのない思考しかできないでしょう。
そして、通常思考がクリアであればあるほど、その人は賢いとされます(もちろんこれは賢さを構成する要素の一つでしかありませんが)。
たとえば
『ふくやの明太子テラウマスwwwwwwらいいwwwwwああああああ
むかしっからたべてるけど、ほんとにおいしすなぁおいしすよぉ。
わざわざ取り寄せてもらってるんだお(^ω^)
うんままままままままりらららりららららいよ(^ω^)ウマスウマスらいす』
よりも
『今年で取り寄せし続けて20年目になる、ふくやの明太子。幼少の頃より大の好物で、三度の飯より明太子が好き。しかし三度の飯と一緒で無いと明太子のおいしさを真に味わえないというパラドックスを抱えていた。あの銀朱色の細やかな粒を白銀色の米の海に浮かべる様は、高価な宝石を身に纏った美しい貴婦人よりも私を高揚させ、雲間から上る朝日よりも私を新鮮な気持ちにさせる。てらうます。』
のほうがおいしさ伝わると思いません!?
前者なんて頭に妖精か寄生虫が棲んでるとしか思えないですよ。実際。
想い人に愛を伝えるにしても、世界にはジュテームだとかサランヘヨだとか愛の言葉は数多あって、
「おいどんは!おまんのことを愛しているでごわす!」
とあくまで真っ直ぐに、不器用に、愛を告げるのもいいかもしれない。
そっちのほうが子宮に響くわ!っていうファンキーな女性もいるかもしれません。
結果LOVELOVEあいしてるな関係になれたらそれでいいじゃない。
「ぼく、わかなちゃんのことが好きで好きでたまらないにゃん♪わかなちゃんのこと考えると夜も眠れないお(^ω^)わかなちゃんギザカワユスwwwwスキススキスww」
と頭の悪さを素直にさらけ出すのもいいかもしれない。
母性本能くすぐられちゃう!キュン!っていうこれまた脳みそ昇天系の女性もいるかもしれません。
ぜひとも二人、手に手を取り合って天へ昇っていただきたい。
そんな台詞よりももっとさぁ、あるんじゃない?
心から心へ愛を伝える、いろんな言葉たちがさぁ!
まぁ、それは各自で考えてくださいよ。甘えるのもいい加減にしてください。
まぁ、今のは極端なたとえですが、
要するに、言葉をたくさん知っていたほうが賢くなれる、ということです。
(しかし一方で、平易な言葉ばかりを使っていても読む者の心に響くようなすばらしい文章もあり、そこが言語の妙味とも言える)
ではどうすれば言葉をたくさんインプットできるかというと、答えは単純明快なもので、多くの言葉に触れればよいのです。読書。これに尽きます。日常的に使用可能なレベルまでひたすら文章に触れ言葉をインプット。
そして、思考から言語へのアウトプットを繰り返し練磨。日々の感情や出来事を可能な限り言語へと変換。
やはり日々の努力なくして上達はありえませんからね。
頭の良さとは先天的に決まっていると考えられがちですが、この言語、思考の互換性を良くすることで、まだまだ頭脳は明晰になっていく可能性があるのですなぁ。という話です。
最近仕事に忙殺され、読書もできない文章も書けない。このままでは僕の脳は緩やかに衰退する!
と焦りを覚えた僕は、ブログを書くことで何とか歯止めをかけたいと、そう思ってるわけです。
オチなどないですが、よろしくお願いします。