※読了まで5分位かかるかもです。「植物と会話?」と思われる方は絵本でも眺めるつもりでご覧ください。

 夜中の公園を散歩していると、1Mほどの山茶花の木が6本程並んでいて綺麗な花を咲かせていた

 その内、端の1本だけは花が一つもなく背丈も一回り他の山茶花に比べて小さかった

 「自分は何に成りたいのか?」

 そんなことを考えながら散歩していたので、思わずその木の前で立ち止まる

 私「どうして花をつけないので?」

 山茶花(以下、山)「何故疑問に思ったの?」

 私「他の皆さんは花をつけているのでどうかしたのかなと」

 山「比べたらそうかもね。でも、ここに私しかいなかったらそんな質問すら生まれないと思うよ。それに、人間に気に入られる為に花を咲かせる訳じゃないし」

 私「なるほどな。周りと比べて~と考えても、自分がどうかは別の話か」

 山「それはそうかもだけど、一方で私が他の山茶花さん達と比べれば見劣りするのは事実だとも思う。他者からの評価もまた一つの私の姿であって、私の意思に関係なく他者にどう評価されようがその人にそう写ったという事実に対して、私自身が改編することはできない」

私「そうかもだけど、そうなると誰になんと言われようが自分らしさを貫くしかないってことでしょうかね?」

山「自分の内側にある自己像と他者から評価される自己像(私自身)に違いが生じても不思議じゃないけど、まぁでも他者が感じた事自体は変えようがないから私がどう思っても仕方ないし、他者に何かを思われてそれに私が応じても限界はあるよ」

私「どう思われるかを気にしても仕方ないって感じってことよね」

山「んーーー。思う・思われるって既に形になった(完了した)事に対して評価する行為じゃない?どう思われるかを意識してどーのこーのと言うよりは、自分がどうなりたいかを実現していって結果的に表されたものが一つの自分の有り様なだけじゃない。自分がどうなっていくか?それがまずは最初なんじゃないの?」

私「「どう思われるかで自分をつくっていく」視点も必要だけど「自分が何をしていくか、結果的にどう思われるか」という視点が先行しないと、いよいよ自分らしさを自分で創り出せなくなるって話なのでしょうかねぇ」

山「たぶん、そんな感じかも。他の山茶花さんに比べたら見劣りするなって惨めになっても、反対に開き直っても仕方ないもの。私が私らしくいるしかないってだけの話だもの」

私「なるほどなぁ。。ありがとうございます」

 その場を後にして歩き出した

 将来何になりたいのかを聞かれて言葉にできずにしどろもどろしていた

 そして気晴らしにやってきた公園だから、普段は素通りするような山茶花の木に惹かれたのだろう

 ・自分の中の自分

 ・他者の目に写る自分

 どちらも同じ私である

 でもって、何に成りたいかで目の前にパンをぶら下げながらマラソンするのではなく、今の自分がどうであるかを意識しながら目的地へ進むことが大切なんだなと、しっみじみ思いました

 完

(ここまでご覧頂きお礼申し上げます)