昨年10月頃から歩くときに酸素ボンベを持つようになって、でもそれに慣れてしまいたくなくて、部屋の中で外してみるんですが‥中々前みたいにはいかず。。
でもやはり、酸素なしでも過ごせるようになりたいって気持ちは消えません。前の人工鼻で吸引は時々するにしても、酸素を持ち歩くことなく、
大股で歩いていきたいんです。
前はなんでできたんだろう?
何が違うんだろう?と思う毎日でもあります。どこからだ?
記憶を辿るような感覚です。
認めたくないからか、たぶん文章にもしたくなくて、ブログにもしばし書けませんでした。でも認めるところからしか、始まらないことってあるかもと思ってきましたというか、認めた先に次の”やれること”が見えてくるんじゃないかって、そうしたらその先は上手くいって酸素が外れるかもしれない、と思います。
筋肉を落とさないようにと理学療法呼吸リハビリで足の股の筋肉や肩の筋肉を付けています。インナーマッスルを特に落とさないようにしていますが、
ただ‥時々苦しいのに動かなきゃいけない、みたいな変なパラドックスにはまって、これなんだかなあって思います。。こうゆう呼吸リハ、肺が悪い人は、これをしてるんだろうか???
気管が悪い私はこれをして良くなる?肺まで悪くなったの?
少しでも良くなる方法ならば!とやらないわけにいかない感じでいます。鍛えるときはわりかし楽にできるタイミングを見計らってます。
りるの負けん玉、どこへ行ったんだ!?
りるはダイジョウブ。ダイジョウブだよ(マッサンのエリー風)
気合いだ!気合いだ!気合いだ!
とか、そうやって自分を励ますことすら、出来なさそうなとき。
頭に浮かぶのは、病院や他の場所やらで、りるが喋ってきた人々の顔。自分の言った言葉、誰かを励ましたはずの言葉が自分にぜんぶ戻ってきます。たぶんまあ大ーきな顔して人を励ました、であろうりる。そんな簡単には、へなちょこになれないわ!と奮い立ちます。
反面、本当の辛さを分かってあげてなかっただけなのかな、とか思っている自分もどこかにあります。
”人の痛みを分かる”、って口にするのは容易いけれど、経験しないと分からないこともある。でも、それじゃあ切ないから、そばにいる人は分かってあげたくなる。その心でも痛んでる本人は十分救われています。貴方の痛みを受け止める用意がある!って、伝えてくれるだけでも良いものです