定理43
快感は過度になりうるしまた悪でありうる。これに対し苦痛は快感あるいは喜びが悪である限りにおいて善でありうる。
証明
快感は喜びの一種であって、この喜びは身体に関する限り、身体の一部分あるいは若干部分がその他の部分以上に刺激されることに存する。そうした感情の力は身体のその他の働きを凌駕して身体に執拗につきまとい、こうして身体が他の多くの仕方で刺激されるのに適しないようにするほど、それほど大なるものでありうる。次に、これと反対に、悲しみの一種である苦痛は、それ自体でみれば善でありえない。しかし我々は、この苦痛という感情について、無限に多くの強度と様式を考えることができる。したがって我々は、快感が過度になるのを防ぎうるような、そしてその限りにおいて(この定理の始めの部分により)身体の能力を減少しないようにできるような、そうした苦痛も考えることができる。ゆえに苦痛はその限りにおいて善であるだろう。
恥辱について注意すべきことは、それが憐憫と同様に徳ではないけれども、それは恥辱を感じる人間には端正な生活を営もうとする慾望が存している限りにおいて善であるということである。あたかも苦痛が身体の損傷部分のまだ腐敗していない証拠である限りにおいて善であると言われるのと同様に。ゆえにある行為を恥じる人間は実際悲しみを感じるけれども、端正な生活を営もうとする慾望を有しない無恥の人よりも完全なのである。