盲目的大胆と盲目的恐怖とは等しい大きさのものと考えられる感情である。ゆえに大胆を抑制するには恐怖を抑制するのと等しい大きさの精神の強さを必要とする。言い換えれば、自由の人は恐怖を克服しようと試みる時と同じ精神の強さをもって危難を回避する。このゆえに、自由の人にあっては適時における逃避は戦闘と同様に大いなる勇気の証明である。
「一つの町で迫害されたときは、他の町に逃げていきなさい」
大胆は細心と矛盾しないということ
今言われたこと(上の標題)には、どういうおかしなことがあるだろうか。けだし何度も語られたことであるが、善の本質は心像の使用にあって、悪の本質も同様だということ、また意志外のものは悪の本性でも善の本性でもないということが正しいならば、「意志外のもののあるところでは大胆であれ、だが意志的なもののあるところでは細心であれ」といえるだろう。そして我々は、本当に悪いものに細心であることによって、そうでないものに対しては大胆であるという結果になるだろう。
見せかけの徳は実は一種の悪徳で、それほど頻繁に見受けられるものではありませんが、他のより顕著な悪徳に対立している悪徳であります。この見せかけの徳は、より顕著な悪徳から、中庸の徳が離れている以上に離れておりますから、中庸の徳よりも賞賛されるのが常であります。たとえば、危険を恐れて逃げ出す者の方が、向こう見ずに危険の中に身を投ずる者よりも数多く見受けられることから、臆病の悪徳に、蛮勇があたかも徳であるかのように対立させられ、真の勇気以上に世間では高く評価されます。同様に、浪費家が適度に金を使う人よりもしばしばもてはやされ、また迷信家や偽善者が、信心家であるとの名声を最も得やすいのであります。