神聖なものを犬に与えてはならず、また真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたに噛みついてくるであろう」
「聖なる物を犬にやるな。彼らがそれを汚物に投げ入れないために」
ソクラテスは問答をする際、問答の相手方自身以外に証人を必要としなかった。彼は「他の人々とはおさらばだ。私はいつも問答の相手方を証人とすることで満足する。そして私は他人の賛成投票は求めずして、問答の相手方の同意だけを求める。」と言っていた。このやり方をした結果、皆が自身の矛盾を自覚することができたのだ。
彼は相手方に「何々を定義してくれ」などとは言わなかった。そして定義が行われたときも、「君の定義はよくない。というのは定義が要点にぴったり合わないからだ。」とは言わなかった。「定義」というのは学術的な用語であって、素人には厄介で解りにくい。だが素人たち自身は、そのような用語なしに自分の心にしたがって何かを是認したり否認したりすることができるだろう。だから我々は、それら学術的な用語によっては彼らを動かすことは断じてできないのだ。それで結局、少なくとも注意深い人々であれば、自身この無力を自覚し、この、素人を動かすということは断念するのである。だが多くの無考えな者どもはこのような事にかかわって、人から混乱させられたり、人を混乱させたり、そして最後に罵ったり罵られたりして去ることになるのだ。だがソクラテスの第一の、そして何よりの特色は、議論において決して興奮させられず、何事も罵らず、また決して高慢にならないで、罵言を辛抱し、単なる争いにならないようにすることであった。
だが、仮に君が地位の高い人と次のような問答を交わしたとする。
「あなたは自分の馬を誰に委せたかを私に言うことができますか。」
「できるよ」
「それは行き当たりばったりの人、馬に経験のない人にですか」
「決してそうではない」
「ではどうですか、金や銀や衣服は誰に委せますか」
「それも行き当たりばったりの人にではない」
「またあなた自身の身体は、その世話を誰に委せますか、今までに考えたことがありますか」
「無論あるよ」
「それは保健術や医術に経験ある者にですか」
「そのとおりだ」
「ではそれらはあなたにとって一番優れたものですか。それともあなたはこれらすべてよりもっと良い何物かを持っていますか」
「君の言うのはどういう物なのか」
「それはゼウスに誓って、ちょうどこれらのものを使用したり、各かくを吟味したり、忠告したりするものなのです」
「一体全体それは魂を意味しているのか」
「よく解ってくれました。実はそのことを言っていたのです」
「ゼウスに誓って言うが、それを持つことは他のものよりもずっといいことだと思う」
「それでは、あなたはご自身の魂についてどんなふうに世話しているか、言うことができますか。というのは、そのように賢明で国家的に有名でいらっしゃるあなたが、自分の一番優れたものをでたらめにいい加減にして見捨てておくということは、ありそうもないからです」
「決してないね」
「しかし自分でその世話をしますか。それとも人から学んでですか。自分で発見できるのですか」
結局ここに危険があるわけで、彼は「君、それは君に何のかかわりがあるんだい。君は私の主人かい」と言うかもしれない。それからもし君が尚も彼を悩まし続けるならば、彼は手を挙げて君に拳骨を食らわすだろう。かつて私自身もそのような目に遭わないうちは、このような事柄の讚美者であったのだ。