Hello Again -42ページ目

3月11日。 この日に

今日2時46分。
家族3人で手を繋ぎ、東北へ向かい黙祷を捧げました。

犠牲になられた多くの方のご冥福をお祈り申し上げます。

1年前の今日。2時10分。
1年分の制作帳やお絵かきノートなど、たくさんの思い出を抱えて幼稚園バスから娘が下りてきた。
家に帰るなりこんなことがあったよ、あんなことを描いたよと1枚1枚絵をめくって楽しかった思い出を話してくれた。

楽しい話が一段落し、おやつを作り始めようとした時、部屋が大きくグラッと揺れた。
食器棚を抑えなくちゃと娘の手を握り片手で抑えようとしたとき、携帯電話がけたたましい音を鳴り響かせた。
みるみる揺れは大きくなり私は抑えてる場合じゃない!と危険が迫っていることを一瞬で感じ、
娘を抱っこし携帯電話をひっつかみ、階段を駆け降り、はだしのまま玄関を出た。

階段を下りる途中耳に入ってくるのは今まで抑えていた食器棚から中に入っていたお皿やコップが
ガシャンガシャンと落ちている音だった。

上から何も落ちてこないようにアパート前の駐車場に出た。
玄関先にはさっき帰ってきたばかりのお隣の1年生AちゃんとHちゃんが呆然と立っていた。
私の目に屋根の瓦が目に入った。あのままじゃ上から落ちて来るかもしれないと思い、
大声でこっちに来るように呼んだ。
4人でかたまってつかまり合っていても立っていられないくらい地面がぐらぐらと揺れる。
みるみる電信柱は傾いていく。
アスファルトには一直線にひびが入っていく。
Aちゃんたちが立っていた玄関先にはとうとう瓦が大きな音を立てて落ち始めた。
駐車場の車はグワングワンと大きく揺れ今にもこちらへ向かってきそうだった。
子供たちは泣き叫び、つかまる手は硬く硬く握りしめられていたが、『大丈夫だよ』としか
声をかけてあげられなかった。

永遠に続くのかと思うくらい長い長い数分間が過ぎ、揺れはおさまったが景色は一変していた。

パパから大丈夫か?のメールが入り、大丈夫だよと返した後携帯電話は一切使い物にならなくなった。

ご近所さんたちと相談し指定避難所になっている近くの中学校に行ってみると町の人たちが続々と集まっていた。
私はこの時、これから体験したことのない日々が始まるなんて思っていなかった。
今夜一晩中学校に泊まれば自宅に帰れると思っていた。


避難所での生活は5日間だったが、対応する町役場の方も避難している住民も混乱をきたし
食糧配給を巡り怒号が飛び、寒さと空腹が不安をさらに煽る。
地震も怖かったが、避難所にいる間、人間が怖くなった。
多くの人の温かさにも触れたが、目を背けたくなるような浅ましさも目にした。

発電所の爆発のニュースを聞き、私と娘、両親、祖父、ママ友と娘ちゃん(パパ同士が同じ会社でご実家が宮城)は、
ガソリンがもつかどうかわからなかったが姉のいる仙台へ逃げることにした。

仙台に向かう途中で携帯電話が復活。パパや姉に連絡がついた。姉にそちらに向かっていることを告げると、
姉は自宅が停電したので旦那さんの実家に避難中だったが、お義母さんが快く私たちを受け入れてくれた。
パパに仙台に行くことを告げ、出来るだけ発電所から遠くへ行くことを言われる。


仙台へ着くと、姉とお義母さんが温かいカレーを作って待っていてくれた。
その味は今まで食べたことがないくらい美味しくって、一口食べたらとってもとっても安心したのを
覚えています。

ママ友がパパのご実家の新潟へ行くことになり、幸い仙台から高速バスが通っていたので無事ご親戚の
もとへ帰れることになりました。





ずっと3月11日のことを振り返るのが怖かったです。
まだ終わってないからです。まだあの震災の中に囚われているからです。

私の故郷は発電所から10㎞圏内です。いつ帰れるかは全く分かりませんが、帰れると国が発表しても
帰りたいと思えません。
そしてその帰りたくない気持ちは、頑張っている故郷を裏切っているような気がして
いつも罪悪感にさいなまれます。

たくさんの方が亡くなっているのに、見つかっていないのに、こうして生かされた私が故郷に背を
向けている現実が、苦しいのです。
故郷に戻れないさみしさ、故郷を捨てようとしている戻らない自分のずるさ、避難所でみた
浅ましい人間に私もなってしまったのかな。


私が生まれた町は桜がきれいな町でした。

きっと今年の春もきれいな桜並木が誰もいない町をまっすぐ咲き誇るのかな。


$Hello Again