生きてるのか死んでるのかわからない。


最近、死という言葉が頭でチラつく。

でも別に死にたいわけじゃない。チラつくだけ。

自分にとって、生きてるのと死ぬのはそんなに差がない。


死ぬのは準備もめんどくさそうだし、痛いのも苦しいのも嫌だ。

でももし死にたいなんていうならあなたの命を誰かにあげてください。死ぬことに痛みはありません。って言われたら

ほな、どうぞ。ってなんの躊躇いもなくいける。赤の他人だろうが身内だろうが犯罪者だろうが、そんなことはどうでもいい。


私が自殺したって聞いたらみんなびっくりするだろうな。悲しむだろうな。うちのこと、あんまり知らない人は

「えー!いつもあんなにニコニコしてて明るい悩みなさそうな子が!」って言うだろうな。


でも、家族が悲しむなんてこともどうでもいいんだ。ただ一つ、旦那はきっとうちの親に頭下げるだろう。

一緒にいながら何も気づけず、止められずごめんなさいって。

それは嫌だ。だって言ってないし見せてない。24時間一緒にいるわけじゃないし、もし気づいてたらエスパー?ちょっと引く。

旦那は何も悪くない。旦那のことは大好きだ。でも旦那が悲しむことはどうだっていい。親に謝られるのは嫌だ。


きっと仲良い人は、なぜ私に相談してくれなかったの?って言うだろうな。

相談なんかしないよ。悩んでないんだから。生きるも死ぬも、目の前の好きでも嫌いでもないトマト食べる?食べない?と同じなんだもん。でもトマト食べるのって、ヘタとって洗うのめんどくさくない?だから今は食べない。それと同じ。めんどくさくなくて痛くて苦しくないなら、パクッ

トマト食べるのに相談なんてしないでしょ?


だけど本当の相談しない理由は、期待して傷つきたくないからだと思う。何かしらして欲しい時、助けて欲しい時、

もし、望む言葉が返ってこなかったら?心が晴れなかったら?愛が感じられなかったら?

その時、本当に死ぬしかなくなっちゃうんじゃない?


勝手に期待して勝手に裏切られた気持ちになるのが1番辛い。

だから一旦はブログを使って言葉にしてみる。

日記でもいいけど、もしうちが死んだ時それが遺書になるのも嫌だ。

匿名という壁を利用する。うちが秋葉原の無差別殺人事件レベルのことを起こして死なない限り、特定されることはないんじゃないかと。


自殺サークルとかは興味ない。


これはうちの終活だ。

もしかしたら死ねない理由、生きる理由、やりたいことが見つかるかもしれない。死が頭から離れてくれるかもしれない。

早いか短いかだけでいつかはみんな死ぬんだ。

事故かも、殺されるかも、病気かも、自殺かも。

今日かも、明日かも、1年後かも、60年後かも。


なんにせよ、いつにせよ

いつでも死ねるための準備をしておく。