とおごです。
本番まで一週間をきり、最後の追加DM、メールの追い込みをしつつ、でも怪談整理も継続しております。
単に本が多く収拾つかないだけともいえますが、
最後まで再読し、脊髄反射で怪異を感知できるところまで持っていけたら、と思う次第。

「恐怖物語」平田嗣吉 わらべ書房
沖縄旅行で、第一ホテルから5分程度のところの古本屋で見つけた本。
あまり怖くない。
あとがきからすれば、道徳の時間に話したことをまとめた本らしい。
50年代のショッカー物を思わせるタランチュラの表紙が趣があります。

「妖霊星」瀬川ことび
「お葬式」という作品集で、明るく世界が終わるさまを八王子キャンパスらしきところから能天気に眺める一編はよかったし、妖怪観察趣味の健康的なホラーも捨てがたい作家です。が、少し趣をかえてかかれております。あの世と霊力とに酔いしれた人にお灸をすえて世界を救うという「死国」に似た雰囲気です。が、こっちのほうがナルシスト成分が少なめです。

「バイオハザード」これは内容は先刻ご承知でしょうから、書き下した牧野修のおぞましさが素敵です。
ただ映画の小説化という制約があります。
ので
「蝿の女」光文社文庫のほうが、カルトでグロで電波系で、と、この作者の持ち味が生きていて好きです。
電波系のナレーションで進むタイプライター、観たいしやりたい。
誰もついてこない心配はありますが。

「魚妖 置いてけ堀」岡本綺堂
たぶんこの本、4冊以上は確実にあると分かりました。
3冊発見して、さらに1冊買ってきたからです。
岡本綺堂お宅としては、同じ作品でも出るたびに買ってしまいます。
何度読んでも、怖い本ですし、癒される本です。

「一休闇物語」朝松健 室町時代という面白いわりにはまだまだ取り上げられていない時代、一休を軸に語られる怪異。怪談というよりは伝奇アクションといったほうがいいかもしれませんが、怪談魂は息づいてます。「舟自帰」など、夢うたかたの話として進めることも可能です。
私はだれであるか、それが決められない場合、いまここにある船の手触り、猫の鳴き声、水音などがかちりとはまれば、物語は静かに進んでいきます。

「神隠しと日本人」小松和彦
物語の枠組みとして読むこともできますが、観客の背後に広がる世間を読むという方向に進めることもできます。

この辺は再読なのですいすいいきます。
「ラブクラフト全集別巻下」
こってりとして、いますこし物足りない作品も混じってます。今この時期に読まなくても、という気もしますが、モダンホラーの源流、間口は常に広げておいたほうがいいかな、と。

「易と日本の祭祀」吉野裕子
これは再読、かつ斜め読み。はまると面白い本です。
易経から神道を解きほぐすさま、わくわくします。

ひとつだけ取り上げると、水死体はなぜ縁起がいいか、金属は死体を封じるのにはいいが、血を封印することはなぜできないか、など、わかりやすくかかれてます。
この俗信は、いまの都市伝説にも時折姿を現します。
とおごです。
「血は冷たく流れる」再読して、解説を読んで腑に落ちたことです。
「サイコ」はまったく新しい怨霊物という指摘です。
いわれてみれば、クトゥルー神話の書き手でスタートしたところから、狂気という形式の果てに、邪神や古き物どもの姿が投影されていても不思議ではないです。

ミステリーやホラーにおけるサイコは、現実の精神疾患の奥行きとは別物であり、本来記号にすぎない。
だからこそ、現実的な異常心理の内面にとらわれず、作者の思いを投影できる。

精神疾患と、異常心理状態、サイコホラーを安易に結びつける風潮は、正直手抜きだと思っておりましたし、現実の疾患を知ると、空々しく思える。
ならば記号に徹すればいい。ミステリーの犯人など、トリックは論理的でも壊れた人間が当たり前。それを
減殺社会をえぐるなどの宣伝をされると引っかかる。それを受けて、社会への影響を取りざたされると、いらっとくる。さらに、「狂気、異常」をつかえばいいというだけのホラーも、それを欲する世間もときに腹立たしくなります。

閑話休題
サイコは、本質が怨霊であり、超自然。それが人間というよりしろを使い、現世に出現。
そう思いなおすと、サイコの、いわゆるサイコホラーと違っているという印象が納得できる。

サイコホラーは同時にミステリーでもある。先に述べたように、全員が狂っているという可能性があれば、舞台は複雑になる。
ただし、なぜ狂気なのか、それを書けば、とてもルポルタージュやノンフィクションにはかなわない。

サイコホラーに話が傾いたとき、このことを共通認識として持っていれば、すこしは怪談に近づけるのか。
それとも、膨大な情報と論理仮説を伴う京極夏彦のようなスタイルは必要か。
この辺も考えないと。
いま、DVDの紹介をしております。
そして、その最後に来る作品が「道成時」です。
まず観てください。
何じゃこりゃ、と思われるかもしれません。
形式も、フリーエチュードと、四畳半といわれる独自の型芝居、そしてるぱむといわれるダンスとを組み合わせた構造になってます。内容も、今昔物語に始まり、歴代の道成寺の芝居を盛り込んで集大成されております。
役者の力量は見てのとおり、日本有数の劇団です。
道成時、男の側からすれば、女が言い寄ってくるのを、とりあえずあしらって、逃げ出した。男は願望があり、女はそれを妨げるものとなる。

女の側からすれば、一目で恋に落ち、身も心もささげたのに、男はそれを踏みにじる、そしてうそをついて逃げる。許せない。そして愛おしい。添い遂げられぬものならば、いっそこの手で、と思えてきます。

大雑把ですが、これが道成寺のメインの部分。
しかし、道成時には、その前後に物語が広がってます。

そもそも、道成時建立の縁起
そして安珍清姫の悲恋
清姫の年齢は2つ説がありますが、
そのひとつは13歳。つまり
ジュリエットと同じ年齢。恋に暴走するには、もってこいの中学1~2年生。

清姫は、恐ろしさの後ろにある一途な思いがいじらしい。
文字通り、恋の焔で二人はこの世に別れを告げます。

でも終わらない。
数百年後、鐘を再建した道成寺に再び怪異が訪れる。

さらにその数百年後、寺の僧侶たちは、清姫が来るという恐れに取り付かれ、お互いに殺しあう。
じつは、清姫はすでに来ていた。

それだけの長大なストーリーをわずか2時間前後にまとめた名作です。

笑いと怖さと壮絶な美しさ、妖艶さと可憐さとが切り替わり、幻想的。
語り手がまた魅力的。

紹介したDVDの最後に、ぜひご覧ください。
とおごです。
また、素敵な本をご紹介します。
「百物語」シリーズの著者、平谷美樹の新作
「怪談倶楽部」竹書房文庫
いつもの、百物語の作風から、「超怖い話」にシフトしたような作品です。
しかも
今回は、怪談話をする会が舞台です。
まず、怪談話をしていたら、怪異に襲われた、というところから始まり、怪異から逃れるという発想そのものが、侵食されて、逃げられなくなる、という枠組みが示され
次に
そこで何が語られたか、を
改めて当時の関係者に、どういういきさつで参加したか、怪異との距離はどうか、というあたりから取材していく。
すると、繰り返し語られる物語が出てくる。
これが、怪奇現象の軸らしい。
そしてその歴史が解きほぐされ、
より奥底までのめりこんでいく。
そして

「道成寺」のモチーフが姿を現す。
それは現代まで追いかけてくる。

構成がたくみ、語り口は、この人独特の持ち味を、少しひねったものになってます。

劇中劇ならぬ、会談中怪談中怪談。それが時系列に沿って掘り下げられる。
ルーマーズにも似た構造、同時に、キャンプファイヤーにも通じる。

百物語を疑似体験するには、いい本だと思います。
30分もあれば一気に読めます。
通読して、その後人物関係図、キャラクター分析を行うと2倍楽しめます。
時間があれば、また是非取り上げたい本です。
とおごです。
すめしはなぜ怖いか。
必ず理由があるはずです。
すめしはごはん。大量につくり、うちわで扇いで仕上げる。結構つらい。
おいしいすめしはすくない。
これがお寿司か、と、散らし寿司を見てだまされた気分になったことは多い。具がかんぴょうとにんじん、生姜、しいたけ。
すしといえば魚だろうと思う身としては、代用品の物悲しさを感じる。
すめしは、もとは魚を乗せて腐らせたもの。
保存食。なれずしがその名残。
なので、間違えると当たる。食中毒。
すめしは得体が知れない。半分腐っている。
よく観ると、菌がびっしりついている。
すめしは白い。つぶつぶ。動き出せば蛆虫。だから甘くておいしい。ぷつぷちした食感。
まだいける。
とりあえずこの辺で。
とおごです。
こういうことを書くと非難されそうですが、わたしは稲川淳二の怪談は苦手です。
怪奇への愛はある。話芸としては磨かれている。実績の裏打ちがある。
それは十分に評価いたします。が、苦手です。

怖くない。呪や霊で説明できてしまう。

唯一の例外が生き人形。
人形怪談としては傑作です、怪異をめぐる人間関係の変容が見事ですし、交通事故のような不条理な破滅もぐっときます。ただ、解釈が多すぎる気がします。
好みの問題だと思います。が、もっと、投げやり、聞き手の想像にゆだねていいのでは、エンターテイナーだから、過剰に説明を、オーバーアクションをサービスしている。話が多いなら、ノイズがもっとほしい。
生活にはノイズがつきものだから。

形式としては中岡らの怪談に似ています。できた当時は斬新でしたが、今読むと、怖さがほとんど消えている。
もしかすると、テレビの、あなたの知らない世界的な番組が、怖さを食いつぶしたか。

でも、怪談会にいくの自体は好きです。とくにトークショータイプの怪談会は怖くていいです。
この辺の差異は何だろう。
まだまだ考えることが多いです。
とおごです。
凄くためになる本が、見つかりました。
「今昔怪奇録」朱雀門出 角川ホラー文庫

表題作を読んだばかりですが、「今昔怪奇録」という怪談集をめぐる怪談。

以下ねたばれを含みます。
人付き合いの嫌いな夫、地方都市に住む。東京に出て出世したい。
この人が、妻に連れられ公民館の掃除に行くところから始まります。
公民館にいく道すがらの風景のスケッチ、これが後半のアドバンスの支えとなります。

掃除が終わり、話す相手もない。ふと、本棚の本が目に留まる。
「妙なものもあるのだなと違和感を持った」
「そのままじっとしているのも変なので、本棚の本でも眺めることにした」
「紙は黄ばんでやわらかくなっている」
など、どこかノートに似てます。

いや、後で分かりますが、実は主人公が大学ノートを買っていきます。
そして、読み出す。
「ページをめくると目次が目に付いた。「ぼうがんこぞうのこと」とあった。ぼうがんこぞうとはなんだろうか。ちょっと興味がわいた」

この辺の展開など、今回の形式と共時性すら感じて、とは大げさですが。大いに「興味がわいた」次第。
「以下、「三人相撲のこと」「くびtるりのきのこと」「死体生け花煉瓦屋敷のこと」「みささぎの丸煙管」「忌む屋号」「毒みみず」と、なかなか面白そうなタイトルが続いている。」

それを読み始めると、その場にざらりとした怪異がおきる。
この怪異との距離感。そして、最後に主人公がどうなるか。
怪談に取り込まれていく、それが自然に発生する。

おそらく オーヘンリーという形式は、最後にわっと驚かせることを強調したもの。
そして怪談の終わりは、いや、怪談会という形式の終わりは、もっと幅広いです。
なので、狙ってできればそれに越したことはないですが、できなくても大丈夫。
置いてきぼりという手法、怪談に取り込むという手法、福が来るという終わり。
すべて正解です。
とおごです。
今度の公演ではキャンプファイヤーという、新しい形式を使っております。
そこで、語り手の立ち居地が、アメリカの都市伝説をベースに作られてます。
なので、ショックの形式も、アメリカスタイルを取ってます。
そこに、日米の違い、いや、都市伝説と怪談との違いが出ています。

都市伝説は民俗学的には世間話という形式の一種ですが、そのへんはとりあえず棚に上げます。

都市伝説の語り口「ともだちのともだち」というものは、話者と体験者との関係を、水平のつながりで間接的に広げるものです。時系列的にはそれほどへだっていない。が、ここは安全圏。
これは、ある意味、怪談を語るには致命的な打撃となります。

怪談が怖い理由のひとつに、それが明らかに非日常なのにもかかわらず、事実として認識されるということがあります。これは創作怪談とはっきり銘打っていても、読んでいてどうしようもなく感じられます。
それを強調する手段として、語り手と体験との距離が近ければ近いほどよい、ということがあります。

でも、語り手の体験とすると矛盾が出る

そういう疑問が起きると思います。確かに、舞台上での性格、行動などとの整合性がなくなる恐れはあります。ただ、リスクに飛び込むという意味では、これもありだと思います。

それではあまりにリスクが高い。という場合は、語り手の知り合いの体験とすれば、程よい距離となります。語り手がそこに登場すると矛盾が起きるというのが、この形式でとかれたことですが、時系列をずらすことで、物理的な距離を置いた話をすることで、ほぼ解決できます。
殺人に持っていこうという、楽な怖さを選ばなければ、おそらく大丈夫。
なぜなら、巷の優れた実話怪談、多くが、体験者への取材という形だからです。

語り手が何人称で語るか、という問題もありますが、それは後述します。
とおごです。
現在、怪談を学ぶために5本のDVDを紹介してます。
そのうち3本は舞台。
白石佳代子「百物語」から1本

ナイロン100℃から「すべての犬は天国に行く」

山の手事情社から「道成時」

いわゆる怪談ではありませんが、怪談を成立させるための重要な要素が見事に描かれており、かつ、演劇としても高水準の作品です。

ほかにも候補は多数ありましたが、そもそもDVD・ビデオなどが存在しない物が大多数。
また、見る時間が取れないということもあり、最小限まで削り込んでみました。

ぜひご覧ください。自信を持ってお勧めします。

とおごです。
現在、下北沢本多劇場の地下、楽園で八家の手事情社の公演があっております。
本日まで、お茶と女
来週から 男とお酒

ものすごく勉強になります。
舞台は二正面の正方形。
そこで展開される最大3人の濃密な空間。
男への積もりつもって行き場のない思いを抱えた女3人が集い、酒を酌み交わし、馬鹿騒ぎ、そうかと思えば男へのうらみつらみを述べたて、手をかける。パワフルで情念に満ちた場。まったくテンションが落ちずに、笑いからモノローグ、舞台劇、ギリシア悲劇、踊りが自然につながる。
この劇団独特の、ものすごく怖い瞬間が、随所にちりばめられてます。
その怖さが、どこから来るのか
それを観るだけでも得るところが大きいです。