姿の見えぬ巨大な怪物が人々を襲う。

怪物が去ったあと、

助かった人々は

散り散りになった肉親を捜す。


その怪物に飲み込まれれば

姿が消える。

身体が残れば運がいい。

今はただ、

この空の下、

自分と同じように

あなたのことを想い、

不安にうちひしがれ

互いに探しまわるという不幸をも願う。
臭いのついた この町で

臭いのついた 風が吹く

だんだん みんなは慣れていくが

どうしてこんなに臭うのだろう


別にくさいわけじゃない

この臭いが好きな人もいるだろう

ただ俺には合わないだけさ

そんな自然な顔はできない


テレビの中じゃ 無味無臭

いい大人が バカ騒ぎ

テレビの中は 夢の中

みんな 自由に 飛び回る
大震災にあたり、マスコミについて考えてみた。

今回のフジテレビやニュージーランド地震のときの

インタビューの取り方を見ていると

「マスコミって最低だな」って思う。

そして今回の地震で日本の高い自治性は

世界で驚きを持って絶賛された。



マスコミも日本人だと思う。

ではなぜこれほどまで評価が違うのか。


自分はそれを日本人が元々全体主義的であるということだと考える。

つまり自分自身を国民、住民の一人として捉えたとき、

日本人としての非常に冷静で秩序的な人々となり、

自分は報道記者の一人だと思えば、

スクープや視聴率を至上命題とし、人の心をも平気で斬りつける

非道な人々となるのだろう。


これは自己の立脚地が非常に曖昧なままに

我々は生きているということを示している。

ぜひとも自分は、どんな時も一人の人間として

慈悲の心を常に維持して生きたいと思う。
ふとしたことから

ただ今大成されている先輩アニメーターのことを

思い出す。


俺もここで終わりたくない。

全身に冷や汗が流れる。

もうその人は俺が観ているアニメの原画マンだ。


もう自分が生きているかどうかは

自分が望まなければ決まらない。


人生が何であるか少しわかった。

死ぬのは嫌だ。でもちゃんと生きたいと思って

動かなきゃ。

生きるなんて大海に浮かぶ小さな小舟。

しかも穴があいてる。

必死に水をかき出さなきゃ死ぬぜ。


俺は諦めたくないんだ。

人生は幼稚なもんで

たくさんの人たちが絡み合うことで

結構見れた物になってるに過ぎない。

気負うことはないんだ。


ifじゃないんだよ。

過去は捨ててこれからを愛してやろう。

死ぬまでで世界のトップに立ってやろうぜ。

いつでも全力だよ。

困難に立ち向かおう。

道なんてもがけば案外あるモンさ。


人生生きるのは酷くつらい。

ハッピーライフなんてさもありなん。

どうする。

さあどうする。
今日、イヤホン付けながら

誰もいなくなった夜道を散歩してたら、

良いアイデアがうまれた。

うまれたと言っても、何となく物になりそうだ

という勘に過ぎないのだが。


ある昔のドラマを見ていると

なんて先見性に溢れたドラマなんだ、

なんて思うことがある。

僕もこんな話を書きたい、

じゃあこの話を現代に置き換えるとどうなるだろう。

すると、そのまんまでも十分現代の問題として通用する。

こうなると弱ってしまう。


しかし僕はこう考える。

きっと今も昔も問題は解決されずに

今日までに至るだけではないのではないか。


具体的に言ってしまうが、

今も昔も希薄になりゆく人間関係と

機械文明批判は無くならないのではないだろうか。

無論これからも...。