お久しぶりです。
本日、令和元年度駿府城天守台発掘調査見学会に行ってきました!
久々の静岡での発掘調査現地説明会なので、ちょっと緊張しましたね~
説明は4回行われ、そのうちの11時からの説明会に参加。
この人だかりよ……。静岡にいない間、有名になったな駿府城よ(笑)
さて、今回の見学会の資料と説明をもとに、発掘調査成果を整理していきましょう!
…の前に、駿府城がいつの間にか有名になってしまった理由を整理しましょう!
1.駿府城が有名になったワケとは!!
駿府城の発掘調査は、2016年(平成28年)から4年間の予定で開始されました。当初は、天守台の正確な位置や大きさなどを収集し、天守台跡地の再整備のための資料を得ることが目的だったようです。
天守を再建したい、という話も出ていたので、じゃあまずは正確なデータを取ってからにしようや!ということでしょう。
2016年(平成28年)には天守台の西側の長さが68mと判明し、天守台の構造も判明しました。
2017年(同29年)には天守台の北側の長さが61mと判明し、日本一大きい天守台であることが分かりました。
転機となったのは2018年(同30年)でした!
これまでの江戸時代(以降「慶長期」と呼ぶ)の天守台とは別に、豊臣秀吉の時代(以降「天正期」と呼ぶ)の天守台が検出され、330点に及ぶ大量の金箔瓦が出土したのです!
天守台は南北約37m、東西約33mで、同時代のものでは最大級であり、豊臣秀吉が家臣の中村一氏(なかむらかずうじ。1590年(天正18年)に徳川家康が関東に移った後、代わりに駿府に入った)に命じて築かせた城の天守台と考えられました。
江戸時代の天守台が分かればいいや!と思っていたところ、豊臣秀吉の時代の天守台が発見されてびっくり!金箔瓦でまたびっくり!!
「花見と大道芸でたまに行くかな(笑)」くらいの駿府城がにわかに脚光を浴びてしまったのです。
・・・さて、大きな成果がでた発掘調査。まだ終わらない。2020年(令和元年)1月7日、静岡新聞が記事を出します。
https://www.at-s.com/news/article/culture/shizuoka/723490.html
【秀吉協力で家康築城か 駿府城に小天守台跡、静岡市が正式発表】
静岡市は7日、2018年10月に駿府城公園(同市葵区)で見つかった「豊臣秀吉の天守台跡」に隣接した場所で、新たな天守台跡が発見されたと発表した。大規模な天守に連結した「小天守」の跡とみられる。江戸時代より前の城跡で連結型の小天守台の遺構が発見されたのは全国初。専門家は「日本城郭史を考えるうえで重要な発見」としている。小天守の発見で秀吉と徳川家康が協力して築城した可能性も浮上した。
1.江戸時代よりも前の時代で「小天守」があった。
2.それも全国初やと!!
3.豊臣秀吉の時代の天守台は、中村一氏じゃなくて徳川家康かも??
今までと言ってることが違うやんけ!というかもっとすごいじゃん!!!
・・・ということで、今回の発掘調査見学会は、この記事についての見学会になりました。そりゃ殺到しますわ(笑)
以下、今回の発掘調査成果です。
今回の発掘調査区域は下図の通りです。
(案内看板より)
江戸時代と豊臣秀吉の時代の天守台の位置関係については、下図の案内看板が分かりやすいかと……
(案内板に加筆)
今回の見学会は、上図の①と②の部分になります。
2.慶長期の駿府城の本丸と二の丸をつなぐ橋の痕跡が検出(①の部分)
こちらでは、慶長期の駿府城の本丸と二の丸をつなぐ橋の痕跡が検出されました。
オレンジ色の縦線が橋の痕跡(橋脚?)になります。
橋脚と橋脚の間は2.7m(1間半)であるとのことでした。
3.天正期の天守台に小天守台が付属していた(②の部分)
先の図で示した①の部分の発掘調査区域が、こちらの写真となります。
写真手前の大きな石の配列が慶長期、奥の小さな石の配列が慶長期になります。
赤色の三角コーンのところにピンク色のビニールひもが設置されています。それが小天守台の範囲だそうです。北東隅と南東隅の石垣が検出されており、20m四方であることが分かったとのことです。
この20m四方は、浜松城の天守台と同じくらいの大きさとのこと。
天正期の天守台は、大坂城と同じくらいの大きさということで、大坂城と浜松城の天守台が、天正期の駿府城に備えられていたことが判明しました。
東側。
西側
東南側。
東南側は、小天守台の石垣が良好に残ってました。
天正期の小天守台が検出されたことで、これまで中村一氏の時期とされてきた天正期の天守台についても再検討の余地が出てきたとのこと。
なぜかというと……
徳川家康の一門である松平家忠が記した『家忠日記』天正17年2月11日条に、
「小伝主てつたい普請当候」
とあり、「小伝主」つまり「小天守」の記述が出てくるからです。
つまり、徳川家康が関東に移る前に小天守の普請を行っていたことになることから、天正期の小天守及び天守台は、駿府城にいた徳川家康が、豊臣秀吉の臣下になった時期に築かれたものではないか、ということになります。
静岡市としては、天守台が大坂城と同規模の大きさであり、浜松城クラスの小天守台が付属していることから、徳川家康が自力で築いたのではなく、豊臣秀吉が持っている最新の技術力をもって築かせたと考えているようです。
これだけの規模の城を築いたのは、関東や東北の諸勢力に、豊臣秀吉の権力を誇示するためなのではないか、とのこと。
臣下になったものに「羽柴」や「豊臣」の姓を与えたり、金をばらまいた秀吉ならやりそうだな・・・と個人的に思いました。
防御のための「城」から、政治的な権力を誇示するための「城」に変わっていった例だと思います。
これで発掘調査は終了し、今後はこの成果を保存、展示するのか、それともあっさり埋め戻してしまうのか、という整備の段階に移っていくとのこと。
天正期の天守台や小天守台が発見されたことで、天守閣の復元は厳しくなったかな(笑)天正期の遺構と慶長期の遺構がはっきり分かるように保存、展示して欲しいな、と思います。
新たな観光資源になればいいですね!









