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趣味で戦国時代のお城の研究をやっています。
発掘調査現地説明会やホームページの更新情報を掲載しています。

本日、国の史跡に指定されている島田市の諏訪原城跡で発掘調査の現地説明会が行われ、今年度、新たにみつかった堀などが公開されました。

さて、その説明会に行ってまいりました!!!


今回の発掘調査区域は、下図の通りです。

イメージ 1
(『諏訪原城跡整備基本計画』より引用・加筆)

前年度は、見事な雨のため説明会が開かれませんでした。よって、今年度は、前年度の発掘成果の紹介も行っています(ただし、資料のみ)。
今回実際に発掘現場を見たのは、上図の「平成24年度調査過所」の部分です。
今回の調査のポイントは、

1.「大手南外堀」の堀の形状はどうか、そして堀はどこまで続いているのか。
2.「大手南外堀」のそばにある三日月堀(「二の曲輪大手馬出」)との接続はどうか。そのまま続いているのか、途中で途切れて道があるのか。

の2点だと思います。

発掘調査全景は、下の写真を参考にしてください。

イメージ 2

(平成24年度発掘調査全景)


今回の発掘調査成果は、以下の3点になります。

1.「大手南外堀」の堀の形は、薬研堀であった。

イメージ 3

(検出された薬研堀)

「薬研堀」とは、V字形になっている堀のことを言います。「薬研」とは、漢方薬などをつくるとき、薬種を細粉にひくのに用いる器具のことで、その小舟部分の断面がV字形になっているのだとか(Wikipediaより)。

堀の深さは約2.6m、堀幅は約5mで、堀の角度は60度とのことでした。
諏訪原城で現在残っている堀に比べれば、規模が小さいですね^^

ただ、平成23年度に調査された「大手北外堀」の堀の形状は箱堀で、「大手南外堀」のそれとは形状が異なっています。
「堀の形状が異なる、というのは、今後検証していく必要がある」とのことでした。「大手北外堀」と「大手南外堀」は、繋がっていないんじゃないでしょうか……?(途中に土橋があるとか)

2.土塁の基底部が確認された。

イメージ 4

(検出された薬研堀と土塁基底部)

今回の調査で、堀を掘った土で構築された土塁の基底部(底面のこと)が検出されました。たぶん、上の写真の丸で囲った部分…だと思います(「白いところ」と言っていたので…。違ったらすいません)。

平成23年度の「大手北外堀」の調査でも、土塁の基底部が検出されています。
これによって、大手曲輪は、堀と土塁によって囲まれた曲輪であることが分かりました。


3.「大手南外堀」と「二の曲輪大手馬出」の接続部分に通路があった。

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(通路と薬研堀、三日月堀[二の曲輪大手馬出]との位置関係)

今回の調査で、薬研堀の終端が検出され、「大手南外堀」と「二の曲輪大手馬出」の間に通路があることが分かりました。
ただ、明治末期に廃寺になった寺の通り道であったことが分かっており、また、その後の茶畑造成により攪乱されているため、改変を受けている可能性があるとのことでした。実際、大手曲輪に入る門があると思って調査したものの、検出されなかった、とのことです。

よって、戦国時代もこの幅の通路であったか、というと、「?」の部分が残る、ということです。


4.今回検出された遺構の年代


さて、今回検出された遺構の年代なのですが、

「徳川氏の改修によるものと考えられる」

とのことでした。理由として、

「本曲輪では、焼土層を挟んで下に武田氏の遺構、上に徳川氏の遺構という2面の遺構が検出されたが、今回の調査区域では遺構面が1面しかないこと」

と述べていらっしゃいました。
武田氏の使用時期と徳川氏の使用時期が3年ぐらいしか差がないということで、遺構面で判断するしかない、というのが現状です。



5.まとめ

今回検出された遺構も、徳川氏の改修の可能性が高い、とのことでした。
本曲輪で検出された焼土層が、諏訪原城発掘調査における大きなポイントになっています。

静岡県において現在発掘が進められている、興国寺城とこの諏訪原城は、武田氏(興国寺城の場合は北条氏も含む)が静岡県下で活躍した段階と、徳川氏が活躍した段階とで、大きく城の造りが異なっている(具体的には、堀や土塁の大規模化)ことを私たちに示してくれるのではないか、と思っています。

今後の調査成果次第で、今まで「武田氏流」とか言われてきた城の考え方が、ガラガラっと崩れて、大きく変わっていく可能性が大きいです。今後の調査に期待しています(`・ω・´)