こんばんは^^
朝晩涼しくなってきましたが、まだ昼間は暑いですね><
さて、本日、二俣城の発掘調査現地説明会に行ってきました。
すでに報道されているように、今回の発掘調査で、大規模な石垣が発見されております。
「二俣城跡西側にも石垣 川に面し大規模 浜松・天竜区」(静岡新聞)
今回の現地説明会は、この発掘調査成果と、文禄・慶長期(1590~1600年あたり)における二俣城の機能についての説明がありました。
いや、あの、こんな丁寧な説明会は初めてでした!入念なミーティング、事故防止のための調査員の配置、初心者の人にもわかりやすい丁寧な説明、完璧だったと思います。しっかりと事前準備をしたんだな、というのがすごく分かりました。本当にありがとうございます!
僕の仕事にも役立てたいです。
説明会は、愛好家の人じゃなくて、地域の人をメインターゲットにすべきだと僕は思っています。
「この遺跡はこんな重要なものなんだ。だから保存する必要があるんです」というのをどんどん訴えていかないといけない。遺跡保存には、地域の人々の協力が不可欠ですから。
では、今回の説明会の成果を整理したいと思います。
説明会でのキーワードは以下の3点です。
1.天竜川を重要視していた城
今回の説明会では、「川」がキーワードになっていました。軸がすごくはっきりしていたと思います。
今回なぜ、大手門の裏側にこんな立派な石垣が検出されたのか。なぜ、天守台が本丸の奥まったところに建てられたのか。
これらについて、天竜川の重要性をもとに説明していました。
当時、二俣城は、木材集積所としての役割があり、天竜川上流から運ばれてきた木材を集める機能があった。その役割を果たすべく、天竜川から見えやすいように、天守や石垣を構築した、とのことです。
防御、というよりも、政治的な意義が大きい、ということでした。

今回検出された石垣です。高さ(埋没した部分を含む)5.5m、織豊期の石垣です。

全体はこんな感じ。
2.新旧の石垣が見える城
もう1点、どちらかというとサブテーマ、という感じでしたが、安土桃山から現代までの石垣を見ることができること、これをテーマにしているように思えました。
実際見てみると一目瞭然。二俣城で石垣の簡単な編年ができるんじゃないかってぐらいです(笑)
上に掲載した画像が、織豊期の石垣です。
で、これが……

江戸から明治。上の石垣と比べて違いが分かりますか?

で、これが現代です。工事記録にしっかり残っているそうです。
蒲原城の石垣と一緒ですね^^これ、だまされちゃいけませんよ??ちなみに、蒲原城では「戦国期の石垣」として紹介しているホームページ、結構あります。違いますよ~。
3.天竜川から大手門への城道
従来指摘されている、二俣城東側の城下集落からの大手城道とは別に、天竜川材木集積所から大手門に至る城道がある、そしてそれは非常に重要な城道であった、という説明がありました。
今回の見学路は、その城道をなぞる形で行われました。なかなかしっかりした防御意識がうかがえました。
なお、他の参加者の顔とかが写っているのと、説明会資料のアップ許可を得ていないので、画像アップはありません。ご容赦ください。
今回の成果は、織豊期の二俣城の様子を知るうえで、非常に大きな成果であったと言えます。こういうのは、発掘調査じゃないと分からない。表面観察では分からないのです。
ですが、逆に、織豊期以前の二俣城の姿が分からなくなったなぁ、と感じました。織豊期にしっかり整備されており、それ以前の面影が薄いのではないか、と思いました。
ただ、戦国期の二俣城は、材木の集積所、というより、天竜川という境目(大きな川は、境目の役割を果たしていた)を意識した、軍事的な意味合いも無視できないと思います。
今後の発掘調査成果に期待ですね^^