お久しぶりです。
お城の研究から随分離れていましたが、中澤克昭氏の「「城とは何か」論の現状と課題」(『上智史学』66、2021)にたまたま触れる機会がありました。
この論文のもととなる、中澤氏の「城と聖地 -近年の「城とは何か」論にふれてー」(小野正敏他編『遺跡に読む中世史』高志書院、2017)、齋藤慎一氏「戦国城館の構造と聖地」(中世学研究会編『城と聖地ー信仰の場の政治性ー』高志書院、2020)を読んでいないので、ここでは論文を読んでメモするだけにとどめます。
個人的には、丁寧で、斎藤氏に対してかなり気を遣った文章だなと思いました。
とりわけ、他の研究者を「齋藤氏」というように「氏」をつけているのが嬉しい。当たり前だと思われるかもしれないが、特にお城の研究者は呼び捨てにする奴が多い。呼び捨ては失礼極まりないし、この時点で読む価値が下がる。
以下、論文のメモです。ホームページの「お城の研究史」に載せないといけない論文。
文献史学でお城を研究する学生は必読です。
いや、内容は文献史学の基本中の基本が書かれているので、お城以外の研究をする人にも見てもらいたいかなあ。
はじめに
中澤 克昭「城と聖地―近年の「城とは何か」論にふれて―」(『遺跡に読む中世史』高志書院、2017)において、「村田・橋口論争のような議論を止揚することをめざして、城郭観について考察」し、研究の視座・立場が異なる故に「かみ合わない二項対立に拘泥する」ことを批判した。それに対し齋藤氏から反論をいただいたので、それに応えながら「城とは何か」を問う研究の現状と課題について述べる。
1.立場と方法について
城郭研究に即して言えば、中世の城を研究する立場は、つぎの二つに大別できる。
①現在、「城」だと認識されているものを中世に探求する立場。
②中世の人々が「城」と認識し、「城」と称したものについて、その実態を探求する立場。
この二つの立場を混同したままでは、「城とは何か」という議論はかみ合わない。
②の立場に立つ場合、中世の人々が何を「城」と認識し、何を「城」と称していたのか、同時代の文献史料や絵画史料を探ってあきらかにしなければならない。筆者は、まずこの立場に徹したいと思っている。
この立場は齋藤氏と同じだと言っていいが、齋藤氏の研究は中世の文献史料における
「城」について考察されているものの、その解釈になると史料から離れ、氏の中世城館像を構築するための説明になっているように思われる。
齋藤氏の研究の立場と方法における問題は、「城館」の「概念規定」という言葉が象徴している。
①「城館」について。中世の文献史料に「城館」という語は見当たらない。考古学的な調査・研究の対象である「城館」について、中世の文献史料にみえる語を用いながら説明しようとしているのではないか。
文献史料によって、「中世の人々にとって「城」とは何だったか」ということを探るのであれば、まず文献史料の方法に徹するべきだろう。
②「概念規定」について。中世の文献史料にみえる「城」や「館」を、「城館」とされる遺跡・遺構と結びつけ、抽象度の高い概念であるかのように説明されようとしている。
問題となる語がどのような文脈でどのような意味で用いられていたかを探り、それを用いていた中世の人々と同じ解釈に到達する「ことばの史的検証」が必要である。
(以上、25・26頁)
2.史料の解釈について
中澤2017に対する齋藤氏の批判について。
「辞書的な理解で否定する方法を採用した」とあるがそうではない。「同じ「城」の字を用いているからといって、同じ構造や性質をもつわけではない」ことを確認するためである。
強引に遺跡・遺構と結び付けるのではなく、まずは文献史学の基本的な方法に徹し、その史料を書き記し、読んだ、中世の人々と同じ解釈に到達することをめざすべきである。
3.聖地をめぐって
齋藤氏は軍事と聖地とを対置され、二者択一的に考えていないか。
網野・石井・福田三氏の『沈黙の中世』で石井氏が述べたのは、「軍事的拠点論」以外の城の見方を提示しているのであって、必ずしも「軍事的拠点」と「聖地」とを対置しているわけではない。
<聖なるもの>や<聖なる場>が、武力の退職にあるわけではない。軍事と信仰は絡み合って併存することもあった。城と聖地の関係を問う意義の一つはそこにある。
齋藤氏の「聖地の概念を論じていない」「自らの聖地論について城館論とどのように連関するのか説明」していないという指摘は甘受し、別の機会に詳論したい。
4.アジアのなかで
中澤2017では、世界史的な視野、特にアジアのなかで日本の「城」を捉え直そうとする研究の重要性を確認し、齋藤氏の見解に賛同した。
しかしながら、齋藤氏の主張の基底には中国の都城制の論理があり、特に、中国の都城の影響をうけ、「城」と「郭」の二重方形区画を基本構造とした、という見解には疑問を感じる。齋藤氏の描き出した本拠の構造は、中国の都城制とは異なる「辺境型国家の都市類型」と言えるのではないか。
これまでの研究に学べば、中世の日本と当時の中国とでは、社会も政治の構造も大きく異なっていた。同時代の中国からすれば、日本は「野蛮」な「辺境」であり、「城」の日常化と政庁化・宮殿化は「兵営国家」を「公儀」と称するようになった「野蛮」な歴史そのものであると言える。
アジアのなかで「城とは何か」を問うことは、こうした歴史を問うことに直結している。
