調停を申請したのは覚えているが
申請してから1回目は、どのくらいの時間だったんだろう
当時の手帳とかには書いているだろうが
そんなもの、とっくに無いし
今見たく、アプリで管理なんてものもないし
当時は、まだガラケー
しかも、カラーでもない
アンテナの付いたガラケー
登録名はカタカナっていう、ほんと初期の携帯の時代
自分の記憶も、もお細部までは覚えてない
ついでに言うと
シングルで二人の姫を育てていた約3年間
(と出会って結婚するまで)
毎日、何食べてたのかとか
どうやって暮らしていたのか とか
記憶に無い
必死に日々生きていた
4時 起床 ネットしたりパソコンの勉強
唯一の自分のための時間
7時 を起こして朝ごはんと保育園の準備
8時半 を保育園へ送り仕事へ
17時 仕事終えて、お迎えに行く
21時までに晩御飯、お風呂を済ませて就寝
ほとんど、テレビを見た記憶がないwww
その頃のテレビとか流行ってた歌とか
記憶喪失か ってくらい抜けている
とにかく、うがい、手洗いだけは徹底させてたおかげでか
風邪などひくこともなく、熱を出すのは土曜日の夜だけとか
親孝行なたちのおかげで仕事を休んだ記憶もほとんどない
おたふくかぜは保育園で流行ったから
さすがに逃げれなかったけど
でも、病児保育というのをフル活用していたな・・・
とてもありがたかった病児保育
あ、また脱線してしまった
1回目の調停が、確か夏だった
ちょうど、働いていた場所から家裁が近くて
半休で行った気がする
調停委員に、親権が欲しい事
養育費が欲しい事を伝えて
養育費くれないと、面接させないって条件は出せますか
って言ったはず
相手は、面接権だけを言って来て
平行線で、1回目が終わる
しかし、この時1回だけ養育費がの口座に振り込まれていた
”パパ” っていう振り込み名になっていた
なにがパパだ って笑った
後にも先にも、この1回のみ
面接権を確保するための既成事実作ったのか・・・
2回目も平行線
3回目っていう前に
:「もう、俺は調停行く気はないから」
と言ってきた
3回目の2日前くらいだった・・・
家裁に連絡をして、不調
(調停が成立しない、話し合いがまとまらないこと)
としますかと聞かれ
不調にしてもらう手続きに行って
審判へ移りますと言われた
そして、裁判官の家庭訪問があります
って言われて
後に、自宅に裁判官が来た
ひんと姫達は
当時、3LDKの市営住宅(家賃は免除ありで5,500と破格)
に3人で暮らし、派遣だけど、ちゃんと安定収入はあった
一方、は
ワンルームで、暮らしながらそこを事務所にして
不安定な自営業だった
裁判官から見て、子供を育てる環境が良いのを判断すると言われていた
そして、小学校へ上がる前の幼児については、
ほぼ、母親に親権は与えられる
と告げられた
そして、離婚した年(離婚したのが3月)の12/25
この日だけは忘れない
クリスマスプレゼントだと思った
親権者を母親とする!
という審判が下った
記憶がちょっと無いんだけど
”審判書”を頂いて、役所へ親権者変更届をすぐに出しに行ったと思う
養育費は一度しか貰えなかったけど
親権を戻すことができて
無事、同じ姓の保険証も持てた
保険証の姓が違ってた時
病院に行ったりすると、最後 受付で呼ばれるときに
たいがい
「□□(ひんの姓)・・・
●●(の姓)
ちゃん」って
呼ばれてて、その違和感が嫌だったのか
達は、診察が終わると受付の前で呼ばれるのを待つようになってた
子供ながらに、他の人と違うのが嫌だったようだ
□□って呼ばれると、”はいいます”ってすぐ応えてた
申し訳なかったな~
覚えてないらしいが