小川健志の破壊的イノベーション -701ページ目

戦う組織

みなさん、こんばんわ。小川です。


今日は母と買い物に出掛けたり、弟と英語のスピーチの練習をしたりと


充実した時間を過ごしました。



今日は題名にある通り『戦う組織』について考えてゆきます。


私は、硬式テニスを小学3年生からの大学4年生10月までの12年間毎日練習していました。


元旦、クリスマス関係なく反復練習の毎日。そして試合の毎日。


中学生になるとテニスがどんどん面白くなり、高校に進学すると


自分のテニスを、より一層磨き上げることが最優先課題


という行動原理を持った競争を好む少年でした。


スポーツの世界は『強い選手が優遇される


のが当たり前で、差別は日常化され高校当時70名居た部員で練習できるのは12名だけでした。


私はどうにか12番目に入り練習することが出来ていました。


コートが3面あり、1面に4人まで入り練習します。

手前からランキングの高い選手が入り、12番目だった私は1番奥の3番コート。


練習風景を見ただけで序列がわかる競争の激しい組織でした。


13番目からの選手は練習ができないため延々とグラウンドを走る。


その甲斐もあってテニス部には陸上部より長距離が早い選手がたくさん居ました。笑


通っていた高校は強豪校で私の1つ上の先輩の代で全国準優勝、私達の代で全校5位の成績を残していました。

部活というよりは『クラブチーム』、私達12名は週に1度だけ部活に参加し、


残りは出身のテニスクラブで練習するというスタイルでした。

上下関係は皆無で、序列の競争源泉は『結果』だけであり、年齢ではありませんでした。


それに加えて、私は海外に10年住んでいた帰国子女で、

中学3年時に本帰国したばかりの『にわか日本人』でした。笑

周囲の期待通り超問題児だったらしく、私の行動が至らないが為に部員70人は

毎日のように奉仕活動をしていました。笑

そんな未熟な自分にどんな時も笑顔で接してくれた同士、先輩には頭があがりません。



日本にも慣れ、学年が2年になる頃


私は手前から2番目のコートで練習するようになっていました。




では続きはまた明日。