意識に流れたことを、書くことには慣れたので、
その瞬間の意識を、その瞬間に、書き留めるのに、パソコンは適していると実感しました。



ただ、ここを、味方だけが読んでいるかと言えば、むしろ反感をもつ人の方が、多くチェックされているだろうなと、当然のごとく思っています。

それが、だめかというと、その方々は、私の失言をチェックできるだろうし、身元調査もできるだろうけれど、

逆に、言葉は、心の中に、入るものだから、いつか、私の真意もまた、わからざるを得ないだろうな、と感じます。

だとすると、互いに、真実の上に、理解と交渉を重ね、合意できる部分、言い換えれば、合意できない部分を、認識し、その上で、私は、相手を、聞く人を、納得させたいのだと思います。

けんか、する必要が、本当にあるか、これまでした事があるのか、と、過去を振り返ってみれば、

小学校時代は、私は、理不尽にいじめられている女の子をほっとけず、言い返して、やめさせようとして、自分が、暴力を受けた事がある。いじめる側の、家庭事情に問題があり、心が荒れていて、そのような弱いものいじめになったとわかり、

親御さんに謝られたような記憶がある。

強情な近所の子の暴力に、負ける訳にはいかず、引かなかった事がある。

中学校では、勉強ができ、喧嘩の強い人に、友情があったので、イマイチの男子のいじわるには、対処して貰えた。3年になると、発育が、早い方々が多く、そういう世界にはついていけず、あまり、関われなかった。勉強も運動も、それぞれに一緒にできる人達がいた。

高校大学は、特に大学は、喧嘩は、なかった気がする。マイペースで、
あまり、説明する事もなく、生きていたけれど、仲良くしてくれる人達が大勢いて、
たとえ、問題があっても、誰かが、カバーに回ってくれていた。

ひどい暴言を集団で、はかれるようなことがあっても、結局、止める力が、働いた。

子供には、代わりによく、説明する事が多い。
背景、深層心理、こうだから、こうやろ。言葉で、問題を事前に解決することが多い。

全てを言える訳でもないが、相当、子供と議論、する。いつも、ではなく、例えば、しっかり、何かに出かけて、日常とは違う空間で、ポツリと話をしだし、じっくり話を聞く。

そんな感じだ。

うっかり、寝る前に、そんなことになると、展開していくので、お互い眠れず、母の小言が飛ぶ。
後から、こんなこと言ってたよ。というと、そんないい話やったん、ということになる。

無駄な時間はなく、無駄なことなど何もない。

一部、出雲さんの、受け売り。

夫への裁判での陳述も、決して、彼を、悪くは言っていないこと、気づいてるかなあ。
それでも、尚、私の立場はこうだ、と認めさせるための文だ。

言葉とは、表現とは、

真実を探し出し、形を見つけ、人に伝え、理解させ、その上で、行動変容させるためのものだ。

自分自身が、理解し、理解することによって、判断や、行動が変わるような、真実でなければ、

伝える意義は、無いのだと思う。