土曜日はいつも仕事でぐったりで、うとうとしている。
その日の夕方も、テレビをつけながらうとうとしてた。

意識が朦朧としていた。

突然激しい揺れを感じた。
尋常ではないと思った。

テレビをつけると中越で大きな地震が起きたらしい。
(新潟市でこの揺れなら相当だ!)

テレビでも情報は錯綜している。電話も当然つながらない。

育ててくれた祖母の安否が心配で新潟市から旧川西町に向かった。
夕方水と食料を買い込み被災地へ向かったが、なかなか辿り着けなかった。
高速の入口にはバリケードが
長岡・小千谷ルートは無理だと思ったから
柏崎→旧高柳町経由を考えた。

出雲崎から停電で真っ暗、信号の電気もつかず、
出雲崎に入る前のコンビニの食料も全部売り切れ。
刈羽から道路が断裂し始め、原発よりの迂回路へ柏崎市内は市の広報車が状況をアナウンス(原発問題ありませんとかも)
毛布に包まった人が家の崩壊を恐れて外で夜を過ごす。信号さえつかない暗闇の交差点を阿吽の呼吸で自動車が交差していく。高柳町から壁とかブロック塀が崩れ始め仙田では道路が片側谷へと数メートル陥没もう片方も辛うじてつながってるだけ。
地盤は崩れてる。
道路の起伏に対処できずフロントがつぶれてる自動車、道の駅に家に戻れず、家族と安否もわからず車で夜を過ごす人が何十人も。
松代経由のルートは、両側が5メートル以上陥没。
10メートル闇の向こうに道路の向こう側が見える。

町道・県道・国道全ての高柳から松代に抜けるルートで
かろうじて1本だけ残っていて
ようやく松代町へ
松代町から十日町を抜け、ようやく実家に辿り着いた。
普段100キロの道のりが180キロ、5時間。

全てが闇の中
家にも人の気配もない。
新潟市で買っておいた、携行用のラジオ付蛍光灯で家に入ってみる。
祖母は生きてるだろうか?

割れたガラス、突き破れた戸、倒れた家具、崩れた壁、落ちた梁
靴のまま壁とガラスの破片の上を祖母を探す。

誰もいなかった。少しほっとした。血の跡もないし。
きっと祖母はどこかに避難できたんだと思った。

小学校の体育館を見てみる。けれども真っ暗。
建物の中は、危ないので避難できなかったんだ。

小学校のグランドには、たくさんの自動車が集まっていた。
みんな車の中で夜を過ごす。

何十台の車の中で、祖母を見つけた。
祖母は、近所の方の自動車の中で、小さくなっていた。
無事だったんだね。

自宅が大丈夫そうだったので、祖母と僕は自宅で寝ることにした。
戦争の時に、東京から避難してこの家を作ったそうだ。
けれども、柱が多い昔のしっかりした作りの家なのが幸いして
案外近所の新築の家より被害が少なかったりする。

だいじょぶだて
ここで寝て
死ぬ時はいっしょに死のてw

ってなんとなく、冗談にもならない冗談なんだけど祖母もほっとしたらしい。
でもその時祖母と一緒に死んでもいいって本当に思ったんだ。

何度も余震があったけど、その度に震度5くらいかなぁとか
このくれえだったらだいじょぶだてっていった。

深夜2時はまわってたと思うけど、なぜか安心して寝ることができた。