今日はいつものようなお店のご紹介ではなく
自分が「食べること」「休むこと」「味わうこと」について思うことを
少しばかり書いてみたいと思います。
このカフェ巡り、街歩きというのは
私にとってどこか逃げでした。
仕事のストレスから少し距離を置くための
遠回り的な意味があったと思います。
なので、自分の先行きのためには本業を頑張るべきだと思っていましたし
その案内のためのブログ・SNSでの情報発信などに日々追われている感じでした。
でも今年の6月に、アメブロでも発信されている
神永明美さんのセッションを受け、もともと自分が持っている資質について明らかにしていただき、
どうもこれは逃げではなく、一つの才能のようなものだと思えたのです。
追わなくても、すでに素晴らしいものを持っていた。
同時に、私は自分が休んだり、食べ物をゆっくり味わったりすることに
罪悪感を抱いていて、十分に楽しんだり享受したりしていないこともよくわかりました。
前後して7月に都内でメタトロン測定を受けました。
メタトロンというのはロシアのプーチン大統領がロシアの宇宙飛行士のために用意した波動療法なのですが、なんとそこでも食べたものをちゃんと消化できていないということが体に出てしまっていました。
脳天と十二指腸と、子宮にそれは表れていました。
十二指腸は急いで食べたりして十分に消化吸収されない様子、脳天には考え事でいっぱいで、自分の本来の機能や能力を信じられなくて思い煩っている様子。
子宮はパートナーとの間にある煩悶、さらには腎臓にお金に対する心配らしきことが現れていました。
思い当たることだらけでした。
さしあたり、脳天の強すぎる緊張を解いてもらいました。
これはどんなセッションでもなかなか難しいことでしたが、メタトロンではいとも簡単に解決されました。
無意識の緊張は、特に脳内のことは、なかなか意識しても解決されないものですが、そのあたりは機械の方が一発のようです。
さらに3日後の朝、五十肩の痛みがすっかり取れていました。
毎日確かめていましたから、これにはビックリしました。
一緒に行った娘も、背中の緊張がだいぶ解けたようでした。
このままの習慣を疑いなく続けていると、いつか肉体的、特に脳周辺に破綻が来ることも
測定では暗示されていました。
母方の家系では、脳や心臓の疾患で亡くなる人が多かったです。
確かに、昨年末ある方のセッションを受けた際にも、これからの展望というところで急に口をつぐまれた部分があり、「もしかしたら」とも思っていたのです。
そうしたこともあって、強く方向転換を迫られたような気がしました。
その際、20日間「オ・ポノポノ」をするよう勧められたので、続けていました。
メタトロン測定からひと月と少し経って、その間もいろいろヒーリングは受けていたのですが、食事していてふと自分の「みじめさ」を感じました。
では、「みじめ」の反対、「素晴らしい」ってどういうことだろうと考えてみました。
私にとって「素晴らしい」とは、栄誉あること、賞賛されること、社会的に認められていたり地位があったりすること、そして経済的に成功していることでした。
どこかそうではないとも思いながら、その価値観を捨て切ることはできていませんでした。
「素晴らしい」があるから、「みじめ」という状態もあるんだろうな、と思いました。
その時、私はメンチカツを食べていました。
「たいめいけん」のメンチカツです。
「たいめいけん」を選んだのは、美味しいからでもありますが、
どこか「素晴らしい」から、自分にとってはある種、権威だからということもあるように感じました。
その時、メンチカツの素材になった豚さんのことを思いました。
それまで自分の生を無心に生きていた豚さんはメンチカツになり、私の「素晴らしさ」を支えてくれているのです。
私が気もそぞろで食べていたら、この豚さんは浮かばれるのでしょうか。
そして、それまで多くのものが、私の幻想である「素晴らしさ」を支えるためにいてくれたのだと思いました。
その1人として娘もいてくれたし、元夫もそうだったのです。
さんざん元夫の犠牲になってきたように思っていましたが、
私はどこかで自分の素晴らしさの支えにしていたこともわかりました。
つまり、依存していたのです。
そしてある意味、彼らを犠牲にしていました。
そう思い、心から元夫に対しても、娘に対しても
「オ・ポノポノ」のことばを言うことができました。
「ありがとう」
「ごめんなさい」
「許してください」
「愛しています」
でももう、彼らを犠牲にしなくても、自分は素晴らしいのだと思うことができました。
素晴らしいから豚さんを食べていい、というわけではないのですが、
素晴らしいとか素晴らしくない、ということがそもそもなく、みなそのままで素晴らしいのです。
本当は他の存在を犠牲にしなければもっとよかったとも思いますが
仕方のない部分もあります。
その分は、自覚しているべきだと思ったのです。
依存が悪いわけでもありません。
今まで、仕事があることが自分の支えであり、アイデンティティでしたが
これからはしばらく休むことを中心にしていきたいと思います。
結構、まだ休むことは怖いのですが、自分の大切な部分につながるために
楽しむこと、味わうことをおろそかにせず、日々過ごしていこうと思います。