人は他人に興味など無く、行き交う人達が出逢う事など皆無だ。
この世界は絶望的に、人と人との出逢いや繋がりは稀薄なのだ。
そんな世界の中で、運命を信じ、奇跡を信じる人達がいた...。
私はそんな人達と出逢い、私の止まっていた時間が動き出した。
シワシワのロングスカートに、白のT-シャツ。
赤いギターを鳴らし、今日も誰に向けてでも無く、歌い続けている。
金曜日の夜8時、路上に行き交う人達は、私の存在など全く気付く事無く、それぞれがそれぞれの世界に住んでいる。
私も行き交う人達の事など、目に入らずただただ唄っている。
唄う理由は、そうする事が私にとっては自然なのだ。
私は、そうしなければ生きていけない。
私の魂が叫べと言っているのだ。
それに、私にはこうして唄ってあげる事しか出来ないから....。
今日もいつも通り唄い終わって、ギターをハードケースにしまい、帰り支度をしていると、何かいつもとは違う違和感を感じた...。
何?っと思い、辺りを見回した。
しかし、周りの景色はいつもと変わらぬ景色が広がっていた。
通り行く人達、私の存在など全く気にしない人達。
私はこの気持ち悪い感覚を残したまま、この場所から立ち去った...。
いつもと同じ場所、同じ時間...。
今夜も私の路上での時間が始まる。
ギターをケースから出し、チューニングを終え、さぁ唄おうと思った瞬間、昨日と同じ違和感があった。
私は即座にその違和感の正体を探ろうと、また辺りを見回した。
判らない...。
何?何なの?
判らないまま、私は唄い出した。
私は唄う時は、何時も遠くを見ている。
近くでは無く、遠くを...。
遠くにいる、たった1人の為に唄うから...。
その時、ハッとした。
違和感の正体が不意に目に飛び込んできたのだ。
沢山の人達が行き交う中で、たった1人立ち止まって、私の歌を聴いてくれている人がいた。
私は嬉しくもあり、戸惑いもあった。
私は誰かの為に唄っている訳では無く、ましてや大勢に聴かせる為に唄っている訳でも無い。
ごめんなさい。
私の歌を聴いてくれるのは、とても嬉しいけど、
あなたの為に唄う事は無いの。
私はたった1人の、とても大好きな人の為に唄っているの。
せっかく立ち止まって、聴いてくれているのに、
ごめんなさい。
本当にごめんね。
私は唄いながら、その人に謝っていた。
それから、次の日も、またその次の日も、その人は私の歌を聴きに来てくれていた...。
目覚めと共に、今日は何か違う事をしようと何故か思った。
カーテンを開けると、とてもいい天気。
そうだ、唄いに行こう。
路上に立って唄い始めてから、いつも同じ場所で同じ時間だった。
昼に場所を変え唄う事など、考えた事が無かった。
だけど、今日は不思議と明るい日差しの元で唄いたかった。
ギターを持って、私のお気に入りの場所を散策した。
緑の葉っぱが燦々と光を浴びて、生命の輝きに満ちている街路樹を数えながら歩いた。
温かな日差しと心地の良い風...。
とても気持ちがいい。
こんなに心が穏やかになるのは、本当に久しぶりだった。
1度行ってみたかったが、なかなか入る勇気が湧かず、いつも通り過ぎるカフェ。
今日はすんなり行ける気がして、私はなんの躊躇もなく入る事が出来た。
店内は外観通り、とても素敵だった。
白で統一された店内には、色とりどりの花で飾られていた。
花々の出す甘い香りと、アロマの香りが相まって、ここでしか嗅ぐ事の出来ない素敵な香りが店内に広がっていた。
体も心も癒される、ずっと居たいと思わせる空間。
だけど、イートインは、この次の楽しみにとっておこう。
そう思った私は、ベーグルサンドとアイスコーヒーをテイクアウトした。
どうしても入る勇気が無かった自分が、もう過去の自分なんだと思えた。
一歩だけ踏み出せた。
ほんの小さな一歩だけど、私にはとても大きな一歩に思えた。
近くの公園に来た。
お気に入りの公園。
この場所は少し、丘になっていて街並みを眼下に見下ろす事が出来た。
平日の昼間、公園にいる人は僅か数人。
ベンチに腰掛け、本を読んでいる老紳士。
犬の散歩に来ている若い女性。
都心から数分で来られるこの公園は、休日になると人で溢れ返る。
そういう公園は苦手だ。
でも、今日みたいに良い天気で、人も疎らな公園は大好きだ。
ギターをケースから出し、適当に、思いのまま弾いてみる。
心が落ち着いてくる。
アイスコーヒーを一口飲んで、喉を潤す。
適当に弾いていたメロディがやがて、1つの曲になっていく...。
そのメロディに詩を載せていく。
あの子の詩が、心に浮かび、頭の中でリフレインする。
それを私の口から解き放つ。
そして完成する。
1曲終わって、ギターケースを見たら、先程買ってあったベーグルサンドが目に入ってきた。
ギターをケースにしまい、ベーグルサンドを食べようと手を伸ばした時、私の手の前に缶コーヒーが差し出された。
「お疲れ様。」
ハッとして、缶コーヒーの手の先を見上げた。
男の人が満面の笑みで私を見ていた。
誰?
何処で見た事が、あるような無いような...。
「昼間もやってるんだね。」
判った。思い出した。あの人だ。
私の違和感。
いつもはスーツを着ていて、今日はジーンズにパーカーといった、とてもラフな感じ。
だから、気付かなかった。
大きな紙袋を2つ持って、平日の昼間に公園に来るなんて、この人はどんな仕事をしているのだろうと、ちょっと気になった。
そんな私の心を読んだのか、私の思いが顔に出ていたのか、彼の方から答え出した。
「今日は色々回っていて、ちょっと会社に戻ろうとしてたんだ。
あっ僕の会社は、ここの近くなんだよ。
そうしたら、素敵な声が聞こえて来て、まさかと思って来てみたら、やっぱり君だった。」
「そうなの...。」
私は何て言ったらよいのか判らずに、小さな声でそう言った。
すると彼が、言った。
「ずっと君の歌を聴いていたからね。
1ヶ月くらいかなぁ...。
毎日、あの時間、あの場所。」
1ヶ月も...。
私が違和感に気付いたのは...そう、2、3日前くらい。
あなたは1ヶ月も私の歌を聴いていてくれたの?
私の初めてのお客さんだったんだね...。
ふと視線を落とした時に、気付いた。
彼が差し出した缶コーヒーの上に置かれた、小さな四角い1枚の紙。
私はその紙が気になり、思わず手に取ってしまった。
すると彼が言った。
「1度、会社に来てみないかい。」
「えっ?」
私は何?と思い、その小さな紙を見た。
flower record
と書いてあった。
その小さな、四角い紙は名刺だった。
私はその名刺を、表、裏...表、裏...と何回もひっくり返しながら見ていた。
「カオル アソウ...。」
私は自分でも、気付かないうちに声に出していた。
「麻生 馨です。」
彼は自己紹介してきた。
「あっ...どうも...。」
私はそれしか言えなかった。
そう、それ以上何て言えばいいの?
「本当に1度、会社に来てみてくれない?」
「会社?...。」
「そう。社長に会ってみない?」
何?怪しい...。
私がそう心の中で思っていると、またしても私の心を読んだのか、彼が言ってきた。
「大丈夫だよ。ちゃんとした会社だよ。
レコード会社だけど、アーティストのマネージメントもやってるんだよ。
社長は凄い人なんだ。
一目でその人の才能を見破るんだ。
そんな社長に君を合わせたいんだ。」
「そう言われても...私に才能なんて無いよ...。
社長さんをガッカリさせるだけだよ...。」
私は伏し目がちに言った。
「いや、君の才能は...。」
そこまで言って、彼は遠くを見ながら続けた。
「君の歌は、飛びたがってる...。
君の歌は遥か遠くまで、高く高く飛びたがってる。」
そこまで言った時、不意に正面から、温かな強い南風が吹いた。
私は思わず目を閉じ、乱れる髪を押さえた。
彼は風を遮るように視線を遠くから、私に向けた。
そして温かい、とても温かい声で言った。
私を真っ直ぐに見ながら...。
「そして、君もね。」
私の歌が飛びたがってる?
そして私も飛びたがってる?
そうだ、そうだったのかも。
私の背中の小さな翼は、大きく羽ばたきたがっていたのかもしれない。
私の心を見透かし、温かい声と優しい眼で導いてくれる...。
風が穏やかになり、私の心も落ち着いてきた。
この人の心は信じられる。
信じていいと思った。
そして私は思う。
奇跡のような出逢いは、2度は無いと...。
先程吹いた、春一番はただの気まぐれで、本当の春一番が吹くのは、もうちょっと先だった。
温かな日差しと、優しい風が、私の元に素敵な贈り物を届けてくれた...。