初めましてちーパグです!
私の生きてきた過程をお話ししたいと思います。
ADHD、ASD、学習障害があるため、文章は下手くそです。
1993年8月下旬、早朝。
私はこの世に生まれてきました。
母は当時20歳になったばかり。
母はクソがつくほどの大真面目な人間でしたが、
母親(私からすれば祖母)からの体罰やいじめ、モラハラ
を受けていたそうで、今でいう、おめでた婚をしたそうです。
そう。家族から逃げる為に嫁に行きました。
当時、父21歳、母19歳でした。
私が幼少期を過ごした家は2世帯の平屋の住宅でした。
なんせ田舎なもので土地は十分にありましたから。
私の母方の祖父は何かを買うというより作るのが
好きだったので、庭には鉄棒、ブランコ、砂場
がありました。
今の一般家庭にはまずないと、今思えば祖父に感謝
しています。
一緒に住んでいたのは父方の祖母と寝たきりの
曽祖父でした。
祖父は50代で私が1歳くらいの時に癌で亡くなった
そうです。
一緒に住んでいるといっても一つ屋根の下という
だけでキッチンも食卓も別でした。
もちろんお風呂も。
私は3歳まで母とずっと暮らしていました。
保育園に行くわけでもなく、母と私はいつも
一緒でした。
父は自営業で塗装屋さんでした。
家にはペンキ専用の物置・・・というより小屋
があり、その日使うペンキはいつもそこから
父がトラックに積み、仕事へ出かけていました。
父はあまり遊んではくれていなかったと思います。
無口な父。という印象がとても強かったのを覚えています。
母が22歳の時、私に妹が出来ました。
私は記憶にはありませんが、しっかりお姉ちゃんを
していたそうです。
妹は母に似てぽっちゃりさんで可愛い顔をして
いました。
母は嫁に行った身ですからストレスも凄かった
と思います。
というのも父はマザコンで母のことを守って
くれるということはなかったと聞いています。
母の実家は車で20分くらいのところであり
いつでも帰れたはずですが毒親のところに
帰りたいとは思いませんよね。
母には逃げるところもなく苦しかったと
思います。
3歳になってから私は個人の保育園に入園
し、幼馴染と一緒に通園していました。
そこは保育士さんが2人で10人程園児が
いたと思います。
先生の実家は農業の営んでおり、時々
畑に行ってじゃがいもや玉ねぎを収穫
させていただきそれを先生が給食として
ふるまってくれていたのを覚えています。
幼馴染は男の子2人でいつも3人で遊んで
いました。
幼い頃から3人のうちの誰かの家でご飯を
食べてお風呂に入り、家に帰って寝る
という生活を送っていました。
おかげで男勝りな性格になり、好きな
キャラクターはウルトラマンでした。
お弁当箱や服までウルトラマンでした。
おかげで小さいときの写真は見せられる
ものではなくなってしまっています。
一年間だけ保育園に通いました。
さて、いよいよ幼稚園に入園となりました。
私にとっては人生で初めての集団行動を
とらなければいけない日がやってきました。
4歳。私は記憶にはありませんが毎日
朝は起きれず、母に送って行ってもらう
生活でした。
このころからADHDの症状が出ていたのだと
思います。
幼稚園につくと行きたくないと泣きじゃくり
母から離れなかったと聞きました。
担任の先生が私をものすごく怒るのです。
先生が怖くてたまりませんでした。
私は落ち着きもなく、走っては毎日転んで
逆に転ばない日が無かったと記憶しています。
給食もマイペースに食べるので廊下に
机を置かれて遊んでいる子たちを横目に
先生に『もういいよ』といってもらえる
のをひたすら待ち、許してもらえるまで
手遊びしたりほかの子と話したりして
時間をつぶします。
食事も自分が満足し、集中が他に行って
しまえば私の中ではもう食事は終わった
から。と自分で決めてそのあと集中する
ことはありません。
大人になっても集中する時間は10分が
限界ですが幼少期はもっと短かった
はずです。
3年間という幼稚園時代は私にとって
あまり記憶にないままに終わりました。
ただ、年齢を重ねても私の行動に成長
がなかったことは確かです。
ADHDというのは同じ失敗を何度も
繰り返すのです。
失敗して、『あ、これ前にも怒られた』
と思い出すのですが寝たら忘れるのです。
私自身が自分自身を認知症なのではないか
何か私の頭はおかしいのではないかと
心配していたほどです。
これは私がADHDと診断されるまで
自分は頭の病気なんだと思っていました。
癌なんだとか長生きできないとか
勝手に妄想を膨らませていました。
いつも先生や親というのは基準が他の
子供たちと同じことができるかどうか
なのです。
私はいつも苦しかったです。
ただ、私の地獄のような日々はこれから
が本番といえると思います。