シネマあらべすく ファイナル

シネマあらべすく ファイナル

新聞に長期連載したコラム「シネマあらべすく」の続編、ブログ版です。

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タイトルの『HACHI』は、あの忠犬ハチ公のこと。渋谷駅前に銅像として残る日本人なら誰でも知っている秋田犬の話である。日本発の犬の物語をアメリカが映画にするのは、タロ・ジロを扱った『南極物語』(1983年の日本映画を2006年にリメイク)したのに次いで2度目。

 今回も設定はほとんどオリジナル(1987年の神山征二郎監督、仲代達矢主演の『ハチ公物語』)そのまま。大学教授のリチャード・ギアが見つけて連れ帰った子犬が朝は教授を駅まで見送り、夕方には駅で出迎えるようになり、教授の死後もずっと駅前で帰りを待ち続ける---なのだが、意外だったのは犬が秋田犬になっていたこと。アメリカでは見かけない種類だから、冒頭、日本から航空便で送られたものの途中アクシデントで迷子になるという経緯が語られる。でもなぜ秋田犬でなければいけないのか、は教授の同僚である日系人(ケイリりー=ヒロユキ・タガワ)が「秋田犬は人間に媚びない誇り高い犬だ」と語ることが示すように、教授の死後10年もつづくHACHIの出迎えが単なる飼い主への忠誠や習慣ではなく、動物と人間の垣をも超えた固い信頼から出た止むにやまれぬ行動だったという解釈で語られた物語となっていて、見るものの心を打つ。

 監督はラッセ・ハルストレム。淡々とした描写でつづってゆく人だが、ここでもそれは変わらないし今回はとりわけ一つ一つのエピソードを手短に処理していて、見るものの感情移入を拒むのだが、それでも終わり近くなると目頭が熱くなる。1時間38分という最近にしては短い上映時間で語るべきことをちゃんと語っている。、映画はかくありたいものだ。



 太平洋戦争末期、沖縄近海にいる日本海軍の潜水艦の話だが、驚いたことにこれがあの『眼下の敵』(1957年)そっくり。『眼下の敵』はアメリカの駆逐艦とドイツの潜水艦が虚々実々の技比べ、知恵比べをしながら戦うという実に面白い映画で当時評判となった。それまでの戦争映画は悲壮感あふれるものか、やたら勇ましいかのどちらかだった。アメリカ製の戦争映画にでてくるドイツ軍兵士は傲慢かつ卑劣な輩と決まっていたのだが、この作品ではじめて"人間"扱いされたの印象的だった。艦長はクルト・ユルゲンス、対する駆逐艦長はロバート・ミッチャム。共に貫禄十分。されとともに、これは一対一の攻防をまるでスポーツの試合を見るような感覚で描いたはじめての映画として記憶される。大戦終結から12年、戦争の記憶も変わり始めたことを窺わせる一編ではあった。

 閑話休題。こんどの日本製潜水艦映画はこのアメリカ製の有名作の設定を堂々と頂いている。原作は池上司なる人の『雷撃深度一九・五』、さらに映画化原作として飯田健三郎著、福井晴敏監修の『真夏のオリオン』と記されているが、いったいどういうことなのか。名前が出ている3人の誰がそつくりそのまま真似たのか。他の作品を真似たり設定を頂いたりということは映画の世界では珍しいことではない。戦前の日本映画はアメリカ映画を盛んに真似た。小津安二郎の若いころの作品に『和製喧嘩友達』(1929年)という題名があるように、アメリカ映画にかぶれていた当時の小津があちらの映画の筋や設定を頂戴してつくった作品があるのだ。戦後では黒澤明の『用心棒』(61年)をそっくり真似たマカロニ・ウエスタン『荒野の用心棒』(64年)がよく知られている。そうではあるが、有名作をそっくり真似るのはいかがなものか。真似るにしてもも少し上手に、いわゆる換骨奪胎してやれないものか。真似るにも才覚が必要なのだ。

 ところで、映画の出来はあまり感心しない。もう少し金をかけて艦船もちゃんと用意できたら、もっとましな作品になったかもしれない。とにかく篠原哲雄が撮るにふさわしい題材ではなかった。

『蛇イチゴ』(2002年)で家族の崩壊を、『ゆれる』(06年)で家族の崩壊と再生を緻密なタッチで描いた西川美和の新作。第3作のテーマは人間というものの不可解さ、である。

 過疎の村で村民のために献身的といっていいほど尽くす中年の医者が突然姿を消したところから話が始まり、失踪の理由が次第に明らかになっていくのだが、これはただの謎解きといった類の映画ではない。医者が医師免許を持っていない偽医師であることは早い段階で本人の口から語られる。この伊野という偽医者の親身な"診療"ぶりは医師の理想像といっていいほどで人々の信頼を集めている。難しい病気らしい患者がみつかると、医書に当たって懸命に調べる努力をする。2000万円という高額の報酬のためだけではない、努力の人でもある。

 伊野を演じるのは落語家というよりエンターテイナーとして人気の高い笑福亭鶴瓶。その名の通り笑みを絶やさぬ福々しい顔とユーモラスなしゃべりから、人間好きの気の置けない人柄が伝わってくる。その鶴瓶を起用しことで映画の成功が決まった。伊野は人の良さ丸出しの顔と親切な診療、研修にきた医師の卵から尊敬されるほどの仕事ぶりから想像もできない無資格者である。その落差の大きさを表現できる役者として鶴瓶ほどの適役者はいないだろう。彼の起用によって、いわゆる"人は見かけによらぬもの"、人間というものの多面性、計りがたさという作品のテーマがくっきりと浮かび上がることとなった。近年、映画界から引っ張りだこの鶴瓶だが、これは彼の代表作といつていい。


かなかのもではある。鶴瓶は近年映画出演が目立つようになったが、古厩智之の『奈緒子』(07年)での好演と並ぶ印象的なキャラクターとなった。


 アカデミー賞の8部門獲得で話題の作品。候補5作のうち『愛を読むひと』は

未見だが、あとの4作のなかでは順当な選考結果だろう。見て楽しいというア

カデミー賞本来の条件を満たしているからだ。最近のこの賞は変にインテリぶ

って批評家たちの意向に影響され過ぎている。ところで、獲得した8つの賞のう

ち1つだけを選ぶとなるとサイモン・ビューフォイの脚色賞だろう。クイズの出題

ごとに主人公のおい立ちが明らかになるとともに、インドの貧困がもたらすさま

ざまな問題があぶりだされていくことになる構成が冴えている。もちろんダニー

・ボイルの切れ味のいい演出も作品の成功に欠かせないが。

 そのダニー・ボイルがこの作品の2時間きっかりという上映時間について「自

分がつくったなかで一番長い。僕はいつも長さを気にしている。僕自身、90分

というのが好き。2時間以上の映画は見たくない。人間が一ヶ所に座っていら

れる自然な時間は100分程度。集中力を持続させるという側面からもそれが

理想だと思う。2時間で話を語れないならストーリーの語り手として失格だ」と

いっている。(キネマ旬報4月下旬号) 同感である。上映時間が長くなってゆ

く困った傾向について筆者はこれまでも何度か苦言を呈してきた。先日見た

日本映画は2時間9分だっのに3時間以上見せられた気がした。演出に締ま

りがなくだらだらと描写するだけだからだ。

 かつての日活ロマンポルノは1時間前後という枠のなかで映画史に残る数々

の傑作をつくってみせた。今のつくり手たちはこうした先達たちの遺産を鑑賞

して学ぶという当然の行為を行っているのだろうか。文学にしろ、絵画、音楽、

演劇にしろ先行するすぐれた作品から学んで自分の肥しにするのが成長の

ための必須の条件のはずだ。映画だけが例外であるはずがない。そんな常識

さえわきまえていないかのような輩がつくった映画が横行している。話がとんで

もない方向にいってしまった。今回はこのへんで。