私の父は毎日北新地で飲み歩いて
家に帰らなかった。
借金もたくさんあったらしい。
母はオカルトにはまって、
メンターさんのお話会や
お寺に籠る勉強会(?)みたいなものに
よく出かけて、
私は小学校、中学校の頃から
何日も家で一人、
留守番することが頻繁にあった。
私は小学校六年の時、
みんなから仲間外れにされる出来事があり、
私は中学に入ったら、中心核の女の子のお姉さんのグループにいじめられることになっていると、
友人のうちの一人から聞いた。
それをきっかけに中学受験をして見事合格。
中学校では友達もいなくて、なぜか好きでもないバレーボール部に入ったけれど、楽しめずにすぐ辞めて、ガリ勉中学生に変身した。
中三の時には成績がトップになり、
高校は名門の私学の女子校に入った。
秀才揃いの女子校に入り、
自分がなぜ勉強しているのか初めて考えた。
みんな目標を持っているように見えた。
みんなじゃないと思うし、その中には家が医者家系だからとか、漠然と国公立には行きたい/行かなければ、みたいなものも入っているけれど、
私にはそういうものすらなかった。
しばらく学校に行けなくなった。
何をしていたかもう記憶はないが、
家でゴロゴロしてテレビでも見ていたのだろう。
ある日、テレビで「音楽療法」「ミュージックセラピー」というものに出会い、勉強すれば私にもできるかもしれないとなぜか思ってしまい、
そこから音楽の道を志すようになった。
向かいの家がピアノ教室で、ピアノの先生の勧めで声楽も習うことになり、声楽の先生の勧めで音楽療法の科ではなく、音楽大学の声楽専攻を受験してみることになり、
声楽の先生の勧めで、高三の夏、大学の声楽科の有名な教授のレッスンを受けて、その教授のいる大学に晴れて合格。
大学四年間を思い出すと、
音楽のことよりお金がなくてずっと困っていたことや生きるためにバイトをしないといけないのになぜか学校の雑用もたくさん引き受けてしまったこと、
最終学年の四年生の時には母が15歳ぐらい年下の彼氏と恋愛をして長年関係が腐り果てていた父との離婚をやっと決意し、それはよかったのだが、
両親が二人で離婚の話を進めることができず、(会話すらできない酷い関係だった。)なぜか私が別れさせ屋のように離婚手続きを手伝う役を自ら請け負ってしまったこと、
そして離婚がめでたく成立して、まだ間もないある日、母がなぜか私に何も告げずに彼氏を家に連れ込み、当然のように一緒に暮らし始めるというカオス、お母さんが彼氏とイチャイチャしているところで暮らせるわけもなく、私は家を出た、
という回想に行きつく。
私の家は本当はとんでもない貧しい家だったのだと思う。父は借金にまみれて母は宗教にまみれていた。貧しさとはお金の面でも愛情の面でもだ。
私が優秀な学校へ行ったり、クラシック音楽の道に進んでしまったために、
私の家は噴水があるような豪邸だと思われることが多かった。
父も母も外面は良かった。朗らかで気前が良く、明るい良い人だと思われているのだろう。
私はお金持ちのあたたかい家庭で育ったと、
人からはそう思われていたのだろうけど、
本当はその真逆だった。
私でさえも、勘違いしていた。
なんでも努力すれば乗り越えられると思っていた。
勉強すれば、成績トップだって難関校合格だって果たすことができた。練習すれば歌もピアノも上達し、音楽大学に入れたし音楽で仕事もできた。
人から羨ましく思われることが多かったけれどその度に心が疼いた。
深く刻み込まれた傷や大きく空いた穴は、
薄っぺらい成功や周りの人からの賞賛では埋めることも隠すこともできなかったのだろう。
私の苦しみなど誰にも分からない。
そんな思いが私の傷をより深くしていった。
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2016年11月、
私は音楽活動をやめた。
生きながら迎えた死。
そこから私の心の旅は始まった。
2025年3月、
あれから8年と4ヶ月経った。
嘘みたいな時間の感覚。
速くも感じるけれど、
数年前から先はもう思い出せない。
記憶がほとんど消えてしまっていて、
太古の昔に感じる。
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私はいったいどこへ向かっているのだろう。
まだわからないけれど、
歩き続ける。
わからないから、
歩き続けよう。
前だけ見て
歩いて行く。
