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『奥の細道』
松尾芭蕉(上の句)と
河合曾良の句を
書きました。

暑い夏でしたが、
一気に秋になりました。
甘いスイカが、一気に無くなり、
夏の終演をつげる
ミンミン蝉の鳴き声が、一気に泣き止み
【夏過一気】と書きますか。

さて、秋の俳句を書いてみました。
仮名書のお手本にしましょう。

●石山の石より白し秋の風
(訳)那谷寺の境内にはたくさんの白石があるが、それより白く清浄に感じるのが吹き抜ける秋の風だ。境内にはおごそかな空気がたちこめている。
 山中温泉に行く道すがら、白根が岳を背にして歩んでいく。左の山際に観音堂がある。
花山法皇が西国三十三か所の巡礼をおとげになって後、
人々を救う大きな心(大慈大悲)を持った観世音菩薩の像を安置されて、
「那谷」と名付けられたということだ。
三十三か所の最初の札所である那智と最期の札所である谷汲から、
それぞれ一時ずつ取ったということだ。
珍しい形の石がさまざまに立ち並び、古松が植え並べられている。
萱ぶきの小さなお堂が岩の上に建ててあり、景色のよい場所である。

●よもすがら秋風聞くや裏の山」
 全昌寺・曾良(そら)

[訳] 師の芭蕉(ばしよう)と別れ一人旅になった寂しさに、
床に入っても一晩中眠れず、
裏山を吹き抜ける秋風の音を聞いて夜を明かしたことだ。
 腹を病んだ曾良は、加賀の国(石川県)山中温泉で師の芭蕉と別れ、
先に同地の全昌寺に宿泊してその寂しい思いを句に託した。


10月、福井の永平寺と至宝観賞に
出掛けますが、
永平寺近くの清凉山天龍寺に
句碑がありました。

●芭蕉の足跡福井までの足どり
江戸を出発してから、芭蕉は曽良を伴って旅を続けてきたが、途中から曽良が腹を病みだした。元禄二年八月五日、芭蕉は曽良が治療に専念できるようにと、彼を加賀山中から一足先に出発させた。このため六日以降、とくに越前に入る頃からの芭蕉の足取りは不確かなものとなる。ここでは『奥の細道』を中心に、曽良の『奥の細道随行日記』も援用しながら、芭蕉の越前での足取りをできる限りたどってみることにする。
八月十日、芭蕉は前日宿泊した大聖寺町の全昌寺を出発した。北陸道を一里余り(約四キロメートル)南下し、途中立花(橘)の茶屋を少し過ぎたところで西に折れ、しばらく歩くと吉崎村に至る。吉崎村は加賀と越前の国境にあり、蓮如居住以後門前町として栄えていた。芭蕉はここから渡舟(浜坂の渡)で北潟湖の対岸の浜坂浦にある汐越の松を訪れる。芭蕉が訪れる以前の貞享二年(一六八五)に刊行されている「越前地理指南」には、「汐越の松、浦の上砂山の頂ニ百本計あり……海岸波高ク加賀能登の海上東は北潟の湖水白山其外嶺々里々見ゆる、誠に無類の致景也」と記してある。『奥の細道』では「終宵嵐に波をはこばせて月をたれたる汐越の松」と、実際は蓮如の和歌であるにもかかわらず、芭蕉は誤って西行の歌として記している。芭蕉はこの和歌で景色の妙を言い尽くしているとして、当地においてはあえて句をものすることはなかった。
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T3/3-s191.jpg

写真191 汐越の松(『越前国名蹟考』)

 芭蕉は西行の跡をたどることも目的の一つであったようで、汐越の松を訪れたあと浜坂から北方浦まで行き、そこからおそらく船で北潟湖を渡り北陸道に出て金津に向かったと思われる。金津からは金津道を通り本多氏の城下町丸岡に出て、さらに丸岡から鳴鹿道を通り、鳴鹿山鹿村からは渡しで九頭竜川を渡って対岸の東古市村に着いた。次いで、かつて江戸で親交のあった大夢和尚を尋ねるため勝山街道を福井に向かつて西進、松岡の天竜寺でその人と会っている。おそらく芭蕉はここで一泊したものと思われる。天竜寺は松平昌勝の創建になる寺で永平寺末、その門前には天保十五年(一八四四)に建てられた芭蕉塚がある。
翌十一日には東古市村まで引き返し、そこから永平寺川をさかのぼり道元が開いた永平寺に向かう。途中で金沢以来同行してきた北枝とも別れ、ここから福井までは芭蕉にとって初めての一人きりの道中となった。別れにさいし、「物書て扇引さく余波哉」の句を北枝に送っている。
永平寺をくまなく見て回った芭蕉は早目に夕飯を食べ、行程約三里の松平氏の城下町福井に向かう。京善村から越坂峠を吉野境村に出て勝山街道に入ったのか、永平寺川をそのまま下って東古市村から勝山街道を西進したのかよくわからないが、芭蕉は黄昏の道を福井城下に向かった。福井には、十数年以前江戸の芭蕉を訪れたことのある神戸洞哉(等栽)が住んでいるはずであった。洞哉はかつて桜井元輔門下の連歌師で、俳諧では可卿を称し、彼の句は寛文七年(一六六七)刊の北村季吟の「新続犬筑波」にも五句収められており、福井俳壇では長老的存在であった。すでに相当の年令に達していたはずで、城下に入りそれとなく生死を尋ねてみると、今も健在でどこそこに住んでいるとのことであった。ようやくにして町中からすこし離れた足羽山の麓の祐海町に目当ての家を見つけたが、軒先には夕顔・へちまが植えられ、鶏頭と箒木は戸口をおおい隠さんばかりでいかにもみすぼらしい家である。案内をこうと女房らしき人が出てきて、主人はただ今留守でだれそれの家に行っているはずだから尋ねて行ってくれとのことであった。十数年ぶりで再会がかない、芭蕉は結局洞哉の家で二晩やっかいになることになった。」

『福井県史』通史編3 近世一より 第五章宗教と文化 第三節学問と文芸 四芭蕉の足跡 
福井県図書館HPから

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これによると、天龍寺に泊り、金沢から同行してきた、立花北枝と別れたようですね。
数年前に参拝したお寺ですが、詳しく、拝見して、お詣りして参ります。