何回か書いていますが、doramusume耳が悪いのです。
子供のころ。母曰く三歳。
肺炎になった時に「ストレプトマイシン」という注射を2本打ったそうです。
当時は結核にこの薬を使ったようです。
今は?知りません。
母が難聴に気が付いたのはいつの事だったのか?
よく覚えていませんが、
小学校の時は、お席を一番前にお願いしていました。母がね。。
doramusume子供の時から大き目。
背が高いと言われていました。今も^^;168㎝。体重ナイショ^^;
席替えのたびに、どっちかって言うと嫌な思いをしておりましたが、
それを訴える術もない、従順な?素直な子供でした^^;
自分で聞こえの悪さを意識したのは中学校の英語の授業中。
なんかなぁ?先生の発音がアルファベットと違う気がして。
でも、今思うと。。この感覚。。英語の授業が嫌いなだけだったのかな?と。
思わないでもないのです。
病院には、思い出したように時々連れていかれました。
要するに、親としてはあまり真剣にどうしよう!という余裕は無かったのだと思います。
ストマイによる中度難聴。と。ずっと言われたし、運命?と思って、
あまり気にせず、それなりに成長しました。
おまけに、音楽が好きでしたので、高校時代は吹奏楽にハマったり。
それほど繊細な演奏をするチームでは無かったので、あまり影響は無かった。
と。私は思っていますが、仲間たちがどう思っていたかは知りません。
ゴメン!仲間!
もう一つおまけに担当パートはパーカッション。
ドラム。doramu娘。doramusumeね(^▽^)/。音合わせ。。あまり関係なかったし^^;
不自由っちゃ不自由ではありましたが、世の中も補聴器はまだ高かったし、
補聴器を付けるほどではなかったし、
まぁ。。反応の鈍い変な子?気が付かない人もいたと思います。
この間、いろいろ、あるにはありましたが、省略。
40歳になった時。改めて病院に通って、初めて補聴器を作りました。
両耳のアナログ式。耳穴式。40万円でした。
会話とかTVの音はいいのですが、エアコンとか換気扇とか。。
うるさくってうるさくって。道を歩くのもつらい💨。
結局使いはしましたが、使いこなさず。時とともに壊れました。
壊れたので48歳の時。両耳、デジタルの耳掛け式を作りました。7万円。
時代が進歩。お値段もだいぶお手頃になりました。
これは結構使いやすく。まぁ。。年齢も重ねていったので。
開き直って、便利に使いこなしました。
この時代に、コールセンターのオペレーターも出来たのです。
ヘッドセットを付けると、聞こえに影響はありませんでした。
と。自分では思っています。
ただ、一回だけ。仕事中に急に周りが静かになって。
「?」帰りの電車。っていうか駅。無音。・・・
家に帰って換気扇の真下も無音に。。
ドライヤーで髪を乾かしても無音^^;
あわてて、花粉症でかかっていた耳鼻科に仕事を休んで行きました。
「突発性の難聴」とぼ診断。
プレドニゾロンというステロイド剤を一週間。
道を歩くのも危ないので注意するように言われました。
この時。50歳だったかなぁ?
聴力が、なんと!回復しました。
お薬の進歩なのかどうか?
今まで聞こえなかった音が聞こえるようになって、
へぇ~それなりに医学は進歩中?
ということで、治りはしないけど、耳鼻科に通う意味はありそうな気配。
コールセンターを雇止めになったのが55歳。
それまでは、月一。なんとなく耳鼻科に通いながら、仕事をしていました。
その後7年近く。彼の病気ですったもんだの日々ですが、
コールセンターをやめて、家でチマチマデーターの入力。
耳は別に聞こえなくても、私は不自由を感じません。
困るのは病院でDrの説明を聞くときと、何気ない看護師さんとの会話。
そのたび彼が「妻!耳が悪いんです!」っとホロー。
あと、普段の生活で私に物申す時、
何回も話さなくっちゃいけない彼が困るだけ。
後の生活には、別に聞こえなくてもいいわ!などど。
お気楽に構えておりました。
Drの大事な説明は、彼も娘もいるし、相手はDr。
お医者さまなので、難聴者には理解がある筈。あって当然。
という、思いも無くはない感じです。
まぁ。。これは重大な間違いなのですけれどもねぇ。。。
難聴に理解があるのは耳鼻科のDrだけだと思うのが、正解です!。
大好きなDr了でさえ、時々忘れて、彼と、「ふつ~」にお話しして。
私が「??」という顔をすると「あ!スミマセン」っておっしゃいます。
ソンナことは、まぁ~いいの♬🎶ですけれど。。
でも、そろそろ。彼。。。。肝臓がんになっちゃたみたいだから。。
私のキコエのサポート。。いつまでやってくれるのか?出来るのか?などなど。。
世の中も、年寄り向けに色々な商品がお安く開発されているし。
キコエ対策。60歳バージョン。只今考え中。です。 続く。。。