
平凡1976年1月号
スター秘話 ●涙で綴った生い立ちの記
浅野ゆう子
悲しい出生、そして母とふたりだけで肩寄せあって歩いた15年。いま、ゆう子は、その暗い日々に別れをつげた⎯⎯。

《昭和35年(1960年)7月、梅雨もあけて夏もいよいよ本格的というある日、神戸と芦屋の間の東灘(ひがしなだ)に3900グラムの大きな太陽のような女の子が元気に産声(うぶごえ)をあげた》
これは、私が『とびだせ初恋』でデビューしたときの宣伝パンフレットの文章です。
でも、実際は、だれからも祝福される幸せな誕生ではなかったのです……。
母が私の出産で産婦人科医院に入院しているあいだ、父は一度も顔を出さなかったそうですだから、母は先生に私生児(編集部注▶正式に結婚していない女性が生み、しかも父が認知していない子)ではないかと思われているのが、とてもつらかったそうです。
私が生まれて退院直後、父はひとりの女性をつれて母にあいにきたそうです、離婚話をもって…。

話はもどりますが、私が母のお腹にできた時
「おろせ!」といって、そのお腹を思いっきり蹴ったそうです。要するに、父にとって私はまったく必要のない子だったのです。
母は大ファンだった石原裕次郎さんの裕をとって、のびやかに育つように祈りをこめて、赤沢裕子(あかざわゆうこ)と命名してくれました。
生まれて3か月ほどたって、やはり生きていくうえには、母が働かなくてはなりません。そこで、父の祖母が九州福岡から私の世話をしに神戸へ出てきてくれました。約一年半、私はそのおばあちゃんの手で育てられました。でも、おばあちゃんにも家庭があります。ある日、九州へ帰ってしまいました。

それで、私は母の一番上のお姉さん(おばちゃん)に預けられました。神戸の青い鳥幼稚園に入園しました。
上流家庭の子供の多い幼稚園です。でも、母は、水商売をしてるけど子供だけはと、夜の7時から1晩中寝ずにならんで私を入園させてくれました。
そして、東灘小学校に入学。おばあちゃんにある事情がおき、今度は自宅の前の知らない家に2年間預けられました。そのあいだに、父と母はとうとう正式にわかれてしまいました。
その夜ウトウト眠ってる私の枕もとで「ゆう子返して!」と母が狂ったように叫んでいたのを覚えています。でも、小さい私にはなんのことだかわかりませんでした。

そして、3年生のとき、またおばあちゃんが私をひきとってくれました。ちょうどそのころからです。お友だちはみんなお父さんが朝お仕事にでかけ、夕方帰ってそろって食事してるのになぜ私のところだけはママが夕方4時ごろやってきてそのまま出かけてしまうのが、疑問をもちました。母は、銀行にいってくるといってました。でもそれはウソだったのです…。
運動会もピアノの発表会もみんな両親がきてるのに、私だけはママとおばちゃんだけ。心の中を、つめたい風がいく度が吹き抜けていきました。そして、5年生になった時、ようやく母は私を迎えにきてくれました。母がお仕事にでるので、夜はひとりでお留守番をしないといけなかったけど、やっぱりママとふたりの生活はもても楽しかった。買い物にいったり、銭湯にいったり。でも「パパがいたほうがいい?」って、さびしそうな顔をして聞くのがママの口ぐせでした。
本当はパパがいないということにとてもひけめを感じてました。でも、私は「ううん、ママひとりでいいの!」って、一生懸命平気なフリをしてました。

ママがお仕事にでたあとのひとりぽっちの夜は、とてもさびしかった。だれかがドアをノックしたような音や、ヘンな電話に毎晩おびえていました。つめたいフトンにもぐって泣いたこともあった。
それで、いつのまにか、夜、部屋という部屋の電気を全部つけっ放しにして眠るクセがついてしまいました。さびしくて、夜になると母をうらみました。何度か、不良になってやろうかと思ったこともあります。
でも、一生懸命頑張ってくれてる母の姿を思うと、とてもそんなことはできませんでした。
そんな6年生の秋、母や友だちと神戸の三の宮に買い物にいきサテライトスタジオのラジオの公録を見て帰ろうとしたら、うしろから「もしもし」と声をかけられました。
声の主は、いま私が所属している研音の今村先生でした。
「お嬢さん、歌は好きですか?歌手になって見ませんか」あまり突然なので、母は「いやらしい!」といって無視しました。
でも、母の歌好きの影響で、私は小さいころから歌手に憧れていました。
ねがってもないチャンス。私は夢中で母を説得しました。
数日後、母はやっと私の気持ちをわかってくれました。こうして、まったく突然に私の前に歌手への道が開けたのでした。
1年間みっちりレッスンしたあと、ママを神戸に残したまま私はひとりで上京しました。
デビューして1年7か月。いま、新曲『卒業アルバム』で、最高にはりきってます。ヒットをだし、一日も早くママを東京に呼んで一緒に住みたい⎯これが私のいちばんの夢です。
手記というものを初めてかきました。これで、暗い思い出をすっかり忘れてしまうつもりです。もう、私は、決して二度と悲しいあのころをふりかえらないでしょう。
(自筆原文のまま)