ジェイジェイ雑誌1990年2月号
こんな彼が欲しい’90スポーツ界のニューウエーブ
栗山英樹1961年4月26日東京生まれ。創価高校卒業。東京学芸大学在学中(1990年)佐々木信也氏の目にとまったことからプロテストを受けることに。1984年、ヤクルトスワローズに入団。外野手。1988年シーズンは規定打席不足ながら首位打者を争い、1989年シーズン初めて規定打席に到達。小、中、高校の体育教諭の免許所有

スポーツ紙のアンケートで若い女性に人気の野球選手ナンバーワンに。1989年シーズンは打率2割6分とやや不振だったものの、ゴールデングラブ賞を獲得。持ち前の俊足と、確実な打撃で来期の活躍が期待されるところ。
「僕、野球下手なんです。本当、向かないと思う。きっと僕のことを応援してくれる人は、高校野球を応援するつもりで見てくれているのでしょう。ホラ、下手でも一生懸命やってるからってカンジで…。
なにしろ東京学芸大学でしょう。そりゃあ弱いチームですよね。でもそれなりに真剣に努力して、プロに入ったらやれるんじゃないかという気持ちはあったんですよ。で、テスト受けて、合格して、感激したのは、入団してから練習が始まるまでの、わずかな間だけでしたね。
一日一緒に練習したらとんでもないところに入っちゃったなあって。だから3カ月ぐらいはどうやってやめようかとそればかり考えていましたね。やっぱり実力ないからやめるっていうのはカッコ悪いし、ケガしてやめるのがいちばんいいかなと思ったりして(笑)。
ところが、そのとき2軍監督だった内藤さんが、ものすごく面倒を見てくれたんです。内藤さん自身、ジャイアンツテスト生第一号で僕とすごく似てたらしいんです。だから、毎日、練習が終わったあと、熱心に僕の個人練習につきあってくれて。で、他人と比べるんじゃなくて、自分が少しずつうまくなればいいんじゃないかって教えられました。となると、この人のために頑張らなきゃという気持ちになったんです。」
「でも、プロ野球って結果の世界ですからね。いつまでも、ひたむきさだけでは通用しません。だから、いかにチームの状況に合わせて自分の仕事がきっちりできるか、来年からその辺を目指さないと。あと、こんな僕でも、プレイを見て励まされましたなんてファンレターが来ると、自分が小さい頃、野球選手に憧れていたように、僕も夢を与えてるんだなあって、やれるところまでやろうって気持ちになります。ファンの方のくださるぬいぐるみ、山のようにありますけど、捨てられないしファンレターの返事もなるべく出したいんです。
でも両親はもともと僕がプロになること大反対でね。僕は、高校も大学ももっと野球がどんどんできるところへ行きたかったんです。が、普通の生活をしてくれっていうことで、学芸大学へ入ったんです。そしたら、うちの大学ってみんな貧乏で、週2日バイトしなくちゃ生活できない奴ばかり。練習も休みが多かったんですよ。で、スキーへ行ったり、海へ行ったり、コンパやったりけっこう普通に遊びました。でも、それって野球引退後の人生に絶対役立つと思うんです。野球っていつまでもできるかわからないじゃないですか。僕、それ以後のこともけっこう考えるんです。
心配だからさっさと家のローン返しちゃったり。そのせいか、同年代やの友達よりずっと収入いいはずなのに毎月ピーピーしてますよ。それに結局、翌日いい試合することを考えて、タクシーに乗るとか、栄養を考えて高い食事とかもするから、残らないんでしょうね。一度病気してるから、体のことを気遣ってしまう。だから、やっぱり、早く身を固めて…そういう体のこと心配してくれる人ができるといいんですけど。早く結婚したほうが、野球のために絶対いいと僕は思ってるんです。でもこればっかり相手がいないとね(笑)」