ジェイジェイ雑誌1990年8月号
クローズアップ  中村勘九郎(十八台目 中村勘三郎  1955年5月30日~2012年12月5日57歳没)
「最近、観客に若い女性が増えつつあって喜んでいるんです」という勘九郎さん。この5月で35歳になったという。伝統芸能という堅苦しいイメージから、身近なものに歌舞伎の流れを変えていくニューリーダーだ。その原点は舞台一筋に、純粋培養された少年時代にあるのかもしれない。
「初舞台は3歳11ヵ月のとき、息子たちと同じ『桃太郎』だったけど、ほとんど記憶はないねぇ。覚えてるのはライトのまぶしさ、おしろいの匂い、お客さんの拍手っていう感覚的なことだね。あとはせり上がりの舞台から落ちそうになって父が演じる鬼に助けられたのが怖かったなあ(笑)。思えば幼児洗礼みたいなもんだったんですよ」
「東洋英和の幼稚園に通ってた頃に、母親と銀座のデパートに行ったらね、子供にとっては夢のように大きい自動車があったの。今でも覚えてるなあ。ギアもついててかっこいいんだよ。買って買って、って泣いてせがんだ。その頃はもう舞台やテレビにも出てたから、親としてはケガでもしたらっていうんで、買ってくれなかったんでしょうね。大袈裟ですけど初めての挫折だったんですよ。僕は親父が46の時の子だし、待望の後継者ですごく可愛がられてたからね。でも芝居に関しては親父はすごく厳しくて、舞台だけでなく、家や稽古中の行儀のことでしょっちゅう殴られてましたよ。それでもやっぱり好きだったんだろうねぇ。舞台があるから学校の行事に出られなくても悲しいと思ったことはなかったもの。手拭を縛って頭の上でくっと止めてちょんまげにして、親父のセリフや大好きな白さぎのおじさん(松本幸四郎の父)の『毛剃』(けぞり)の見得なんかの真似ごとして
遊んでましたよ。そしたら親父がかつらをプレゼントしてくれてね。もう嬉しくて嬉しくて抱いて寝たもんね(笑)」
三つ子の魂である。長男の勘九郎君も物心つい
た頃、東京駅のホームで転びかけてつい出てき
たのが「おっと危ないつるぎの舞」という
『娘道成寺』(むすめどうじょうじ)の小坊主のセリフ。「こいつは役者になると思ったよ」早くも魂は受け継がれているようだ。何か特別な
中村家の教育法でもあるのかしら。
「全然ないよ。ただ親父がね、いつも芝居の話をしてる人だったから。車の中、食事中、すぐにセリフが出てくる。そんな中で育ったから、自然に生活の一部になってなんだねぇ。一緒にマージャンするようになっても僕が勝つと〝おメエは芝居のこと考えてねぇんだ。俺はマージャンしてても芝居能古と考えてるから負けるんだ〟って(笑)。でも本当に歌舞伎の〝形〟だけでなく、いつもハートの動いてる人だったね」
「とにかく見てて飽きない人よ。怖いけど。猿之助さんの『ヤマトタケル』で興奮して立って拍手しようとしてひっくり返っちゃったり(笑)。本番前の舞台袖で、生意気なこと言っちゃったら、〝何だ、その態度は!出ねえぞ!〟ってこっちに向かって来たと同時に思いきり粱に頭ぶつけて、ますます怒っちゃって衣装とかかつらのまま楽屋口まで出てっちゃってね(笑)
慌ててみんなが連れ戻したけど、舞台でもまだ怒ってるの。僕に全く芝居させてくんないんですよ。だけど勘三郎はいい芝居をする。観客は勘三郎に大拍手。僕は新聞の批評で〝勘九郎はガタガタ〟なんて書かれるし、ヒドイよ(笑)
何もしてあげられなかったけど、死ぬ前に孫と共演できたと思ってるんですけどね。女房にも感謝しなくちゃなあ。大変だと思うよ。3人の子供の母みたいなもんですもん(笑)」
「僕は芝居でいくら収入があるのか知らないんです。知りたくないしね。だってそういうもんじゃないじゃない。日々学ぶことや発見があって、その上お客さんに夢が与えられるなんて、こんな楽しいことないよ」
話をきいているとこちらまでワクワクしてくるから不思議だ。