スマートフォンの画面を上から下へ、指先で弾くようにスワイプする。くるくると回る読み込み中の円マーク。それが消えた瞬間、数字が更新される。

『本日のアクセス数:4,218』

「よし……」

里見香織(さとみ かおり)、34歳。都内の中小企業で事務職として働く彼女には、もうひとつの顔がある。 アメーバブログの「インテリア・暮らしジャンル」で、常にランキング20位前後をキープしているブロガー、『ハル』だ。

ブログのタイトルは『ハルの、余白のある暮らし』。 プロフィール画像は、自然光がたっぷりと入る窓辺に置かれた、一輪のカスミソウ。 そこには、丁寧な暮らし、整理整頓された部屋、そして季節の手仕事を楽しむ、理想的な「ハルさん」がいる。

しかし、現実の香織は今、洗濯物が山積みになったソファの隅で、コンビニの袋をガサガサと開けているところだった。

「……あー、今日何書こう」

缶ビールのプルタブをプシュッと開けながら、香織は溜息をつく。 ブログの中の『ハル』は、決して缶ビールを直飲みしない。必ず薄手のグラスに注ぎ、コースターを敷く。夕食は彩り豊かな一汁三菜だ。 だが、今の香織の目の前にあるのは、スーパーの惣菜コーナーで半額シールが貼られたアジフライと、パックのご飯。

これが現実だ。けれど、嘘をついているわけではない。 週末に気合を入れて掃除をし、最高の光加減で撮り溜めた写真を、平日に小出しにしているだけだ。ただ、その「切り取られた真実」と「今の自分」とのギャップに、時折めまいがしそうになる。

最近、ランキングが伸び悩んでいた。 原因はわかっている。同じジャンルのライバル、『ミニマリスト・M』の台頭だ。 Mの記事は刺激的だった。 『【断捨離】夫のコレクションを勝手に捨てた結果』 『義母からの不快な贈り物、即メルカリ行き』 タイトルだけでクリックしたくなる、少し毒のある内容。コメント欄はいつも賛否両論で荒れているが、アクセス数は桁違いだ。

(毒……かぁ)

香織はアジフライをかじりながら、スマホのメモ帳を開く。 平和な「丁寧な暮らし」は、もう飽きられているのかもしれない。私も少し、踏み込んだことを書くべきだろうか。

『【衝撃】夫の財布から出てきた、見知らぬレシート』 『職場の同僚(40代)の痛すぎる言動』

試しにいくつかタイトル案を打ってみる。 心臓が少し速く打つ。これをアップすれば、明日の朝にはアクセス数が倍になっているかもしれない。ランキングも一桁に行けるかもしれない。 承認欲求という甘い蜜が、脳内にじわりと広がる。

その時、玄関のドアが開く音がした。

「ただいまー」

夫の健太だ。 香織は慌ててスマホを伏せた。まるで浮気現場を見られたような気分だった。

「おかえり。遅かったね」 「うん、ちょっとトラブルあってさ。あ、それアジフライ? いいね」

健太はネクタイを緩めながら、リビングに入ってくる。そして、山積みの洗濯物を見ても、散らかったテーブルを見ても、何も言わずに笑った。

「香織も疲れてるのに、晩御飯ありがとね」

そう言って、彼はコンビニの袋から何かを取り出した。 「これ、駅前の期間限定のやつ。並んでたから買ってみた」

小さな箱に入っていたのは、少し高級なプリンだった。 『ハル』のブログに出てくるような、お洒落なパティスリーのものではない。でも、健太が仕事帰りに並んで買ってきてくれたものだ。

「……ありがとう。一緒に食べよっか」

二人でテーブルの上のチラシや郵便物を端に寄せ、スペースを作る。 プラスチックのスプーンで食べたプリンは、濃厚で、卵の味がしっかりとした。

「うまいなー」 「うん、美味しい」

健太が無邪気に笑うのを見て、香織は伏せていたスマホを手に取った。 さっき打ち込んだ『【衝撃】夫の財布から〜』という文字が目に入る。

夫は、聖人君子ではない。脱いだ靴下は裏返しだし、たまにデリカシーのないことも言う。 でも、私の作った半額のアジフライを「いいね」と言い、プリンを買ってきてくれる人だ。 そんな彼をネタにして、アクセス数を稼いで、何になるんだろう。

『ハル』という虚像を守るために、一番大切な現実を切り売りしてどうする。

香織はバックスペースキーを長押しした。 刺激的なタイトルが、一文字ずつ消えていく。

その代わり、彼女はカメラを起動した。 散らかった背景が写らないように、プリンの空き容器と、二つのプラスチック・スプーンだけをアップにする。 少し生活感が出てしまったけれど、加工で誤魔化すのはやめた。


【タイトル】夫のお土産と、深夜のプリン

こんばんは、ハルです。 今日は仕事でクタクタで、部屋も散らかり放題です(笑)。 そんな中、夫が駅前でプリンを買ってきてくれました。

おしゃれな器に移し替える元気もなくて、 そのまま二人で並んで食べました。

「丁寧な暮らし」とは程遠い夜だけど、 甘いプリンと、「美味しいね」と言い合える時間。 それだけで、今日はいい日だったなと思えます。

皆さんも、今日一日お疲れ様でした。 おやすみなさい。


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10分も経たないうちに、通知が一件入った。 いつもの常連さん、『空色』さんからのコメントだ。

『ハルさん、こんばんは。 私も今日は仕事でミスをして落ち込んでいました。 でも、ハルさんの飾らない記事を読んで、なんだかホッとしました。 完璧じゃなくても、幸せってこういう瞬間にありますよね。 私もコンビニでスイーツ買って帰ります!』

香織の口元が自然と緩む。 アクセス解析の画面は見なかった。 数字よりも、たった一人の「ホッとしました」という言葉が、今の香織には何倍も温かく感じられたからだ。

「なにニヤニヤしてんの?」 健太が不思議そうに覗き込んでくる。

「ううん、なんでもない。……ねえ、明日、このアジフライで卵とじ丼にしない?」 「お、いいねぇ!天才!」

香織はスマホを充電器に繋ぐと、画面をオフにした。 明日のブログのネタは、アジフライの卵とじ丼で決まりだ。 写真映えはしないかもしれないけれど、きっと、とびきり美味しい味がする。

(了)