こんばんわ(^^♪
コロナのおかげでまたまた自宅待機中
私的にはめっちゃラッキーで宇宙からのプレゼント第二弾です。
前回からの私のルーツ?生い立ちかな?
ここからは、偏見や固定観念や心の狭~い方には
おそらくついていけないかもです❣
私が形成された過程では決してここを外せない話ですが・・・
なかなか書き難い話・・・・差別されてきましたから😢
父・母 共に在日韓国人二世
私は在日韓国人三世でした。
私が物心付いたのが確か5歳ごろ
その時、一緒に暮らしていたのは乳母車のような台車を押してでないと歩けない
父方のおばあちゃんと父親とおじさん(親父の兄貴)の四人で暮らしていました。
おばあちゃんは日本語が全く話せなかったのですが、私の身の回りの事を
世話してくれていました。
ここで、おばあちゃんはおじいちゃんが戦争前に仕事で長崎に来ていて、
後からおばあちゃんと親父の姉と親父の兄貴の3人で日本へ来たみたいです。
その時は親父は生まれてなかった、日本で生まれて終戦の年には13歳で
おじいちゃんは終戦1週間前に結核で亡くなったと聞かされていました。
親父の下には4歳下の妹が一人いたので、おばあちゃんはめちゃくちゃ苦労したと聞いています。
(私にとっての日本での身内はたったこれだけの人達でした。)
おばあちゃんはいつも台車を押して段ボールをひらったのを売って
自分のお小遣いや食費に充てていたように思います。
そんなおばあちゃんに、いつもおじさんがお小遣いをせびっていたのが
めっちゃ嫌でした。だから私はこのおじさんが嫌いだった。
台車をゆっくり押しながらしか歩けないおばあちゃん、
一日歩き回ってひらった段ボール代金、私ははっきりわからないけど
10円20円の世界です。
その金額をコツコツ貯めたお金をおじさんが持って行くんです。
おばあちゃんはいつも泣いてました。
それを見て親父とおじさんがいつも喧嘩![]()
おじさんは交通事故の後遺症で片足を引きずってしか歩けなくて
そして心臓に穴が開いてるからと働いていませんでした。
だけど現在のような国からの援助的な物もなかったようです。
親父はというと韓国男児独特で、気性は短気で荒かったの![]()
だけど私には優しかったんです。この頃はね
仕事は鋳物師という職人でした。(鉄を溶かして型にはめて作る職人)
仕事にかけては職人気質で一生懸命なんですが、日曜日になると毎週のように競馬
競輪・麻雀へ出かけていました。
たまには私も連れて行ってとせがんだことで、一度だけ京都競馬場へ連れて行ってもらったのも
今となったら良き思いでなんですが・・・![]()
そのころは学校は日曜日だけ休みで、勿論、会社とかも同じでした。
親父が居ない日曜日は、物心つく以前から親父の姉(おばさん)に
教会へ連れて行ってもらってました。
なので日曜日はずーーーと日曜学校(教会)で一日過ごす事が当たり前の生活で
教会が私の遊び場でした。
朝からは子供達の学校、11時からは大人の礼拝、午後からは聖歌隊の練習
んな環境の中での私はというと
母親が早くに”死んだ”と言い聞かされていましたが![]()
本人的にはなーんにもわかんなかった!深く考えてもなかったんです。
周りはというと従妹のお姉ちゃんやおばちゃん達は
私の事、可哀想やとか言って甘やかしたり、めっちゃ可愛がってくれたことが
やんちゃでお転婆というか男まさりというか、
自分でいうのもなんですが、しっかりもしていました。
保育園まで2キロぐらいあるのを5歳で一人で行って、帰って来てましたし
おまけに近所のひとつ下の子をおばちゃんに頼まれて一緒に連れて行ってあげてました。
ただ、近所の子が一緒なので帰りは寄り道しちゃって暗くなってしまったことから
おばちゃんから大目玉で怒られたから、またひとりで通ってたの![]()
小学校の入学式、記憶にないなぁ~たぶん一人で行くのが嫌で入学式ボイコットしたように????
小学校1年生、気が付けば子分が12人居ました!
なぜかはわかんないですが・・・・今から思うと私の不良時代だと思います。
めっちゃ喧嘩ばやくて男とでも平気で喧嘩してた。
低学年の頃は成績は良かったんだけどね!だれでもいいか!体育もめっちゃ得意で
通知表オール5 だけどいつも親父に怒られていたの![]()
勉強以外での事を先生が通知表に書いてるでしょ!
子分が居る事ばれちゃった![]()
それがまずかったんだよね~![]()
ここまで、まあまあある話かな?
小学校二年ぐらいだったと思う。
親父の仕事の都合で、親父のお姉さん家族のところで生活するようになったんです。
ここからががらりと生活が変わって、今まで知らされていなかった事が
徐々に母親の事、自分に妹弟が?
私自身の性格も変わって行きました。
次はちょっとヘビーな話になるかな?
次回へ続く









