昨日ポレポレ東中野で鑑賞してきたこのドキュメンタリーを語ろうとする時、表題の言葉を思い出す。

この映画は 今まで数多くの死刑求刑の被告の刑事弁護を請け負ってきた「安田弁護士」を追ったドキュメンタリーだ。


かつて世間から大バッシングを受けた裁判がある。光市母子殺人事件。
若干23歳の女性と一歳にも満たない赤ちゃんが、同じマンションに住む18歳の少年に殺害され、亡くなった女性が陵辱された事件だ。
当時18歳の少年事件だったこと、被害者の夫だった本村さんが一貫して犯人の死刑を訴え続けた事などから、非常に注目されていた。

2審まで死刑判決が出た後、最高裁への上告の後には21人の弁護団が結成され、その多くが死刑制度に反対する弁護士だった。

2審までの殺意を否定し
「ドラえもんがなんとかしてくれると思った」「お母さんに甘えたかった」
という弁護士側の主張内容に、世間は死刑判決逃れの詭弁だ、少年だった事を理由に罪を逃れようとしていると大バッシングになった。

私も憶えている。当時少年が 友人に当てた手紙が週刊誌に公開され、そのあまりに罪の意識を感じさせない文章、被害者家族をおちょくったような内容に

こいつは当時未成年だったことで自分が死刑にならずに済むと思って、贖罪の意識も無くのうのうと世間に出てこようとしている。

そんなことは許されない、と感じた。
彼は、死んで罪を償うべきだと思った。

死刑になる根拠が年齢や、殺した人数で計られるべきではないと思った。


世間の怒りもおおむね一緒で、特に21人もの弁護団を結成してそんな「とんでも弁護」を繰り広げた弁護士にそれはもう、大バッシングだったことを憶えている。


そして、犯人には死刑判決がおりた。



あのとき、21人の弁護士を率いたのが今回の主役である「安田弁護士」。
御歳64歳。
大のマスコミ嫌いで今回の取材も「複数の弁護士のオムニバス映画」とだまくらかして撮ったらしい。

今も55の案件を担当し、家に帰るのは月に一度だけ。ネクタイもしめないラフな格好で、やぶにらみにパソコンに向き合い、汚い事務所に泊まり込み、月に一度は林ますみ の弁護会議に出席する。そう、彼は 和歌山カレー殺人事件の林ますみの弁護人でもある。

日航機ハイジャック事件、浅間山荘事件、オウムの麻原、林ますみ、光市母子殺人事件、、、

私たちが誰しも知っている事件の弁護を、彼は引き受けてきた。


なぜ、そんな凶悪犯の弁護をするのか。

なぜ、彼らの言い分を聞く必要があるのか。

私たちが「死ぬことでしか償えない罪を負った犯罪者の言い分を今更聞いてどうする」

と考える事に対し、安田はまっこうから反対する。


「ただ真実を追究する事によって、本当の反省が生まれ被害者への贖罪ができる」
「もう二度とこんなことが起こらない為に、真実を追究する必要がある」
「ヒトラーでさえ、更正できると思っている」

刑事弁護と死刑反対活動は分けている、刑事弁護は真実を追究する場だと言ったそばから、過去に弁護した処刑された被告人に対し「あのとき、何でもでっちあげていれば彼はまだ生きていた」と涙を流す。


理屈があってないよ。と思う。
しかし、理屈があっていりゃ正しいのか、正義なのか、とも思う。
人が善人で弱い生き物だと定義した時に寄り添うってこういうことじゃないのかとも思う。


死刑反対については認められないけど、こんな弁護士がいた方が正常な世の中だと知った様なことを言ってみたりする。


しかし、私たちが言う理屈や、死を持って償うという言葉の抽象さや、日本社会をマスで語る「何かをわかったようなこと」が、彼のやり続けてきたことの前で何の説得力も持たない。

それは、光市母子殺害事件で、若干23歳の時から一貫して犯人への死刑求刑をおこない、のみならず被害者遺族の訴えを社会活動にまで高めた本村さんを前にして「当時彼はまだ若く未熟で、更正の余地があるから、だから許すべきだ」などと言う事と一緒だ。

私たちは、安易に語ってはいけないことがある。

正解など無いと言うことしか結論がでない事がある。

なのになぜこのドキュメンタリーをテレビ局である東海テレビがとったのかといえば、私がこの映画について書くのかといえば、ただ、「私たちはメディアの向こう側で自分の信念を掛けて活動をしている彼らの事を知らなくてはいけない。そして、受けとめなくてはいけない」ということなのだと思う。

中盤に出てきた死刑囚の手記に私は号泣した。彼がかわいそうだったからではなく、彼の殺人を後押しした彼の自己否定、自己評価のどうしようもない低さに激しく共感したからだ。

私たちは誰でも塀のこちら側、向こう側を行き来する可能性がある。
その時に私を弁護してくれるのが、安田弁護士だったら良いのにと思う。