お久しぶりです。まだフォローしてくださっている方、いらっしゃるかな。(はずし忘れてるだけ?)

次男ツギオは無事4回生に進級してます。これまでに再試にかかったことはありません。そういえば昔から危険回避は上手かった。それに、もともと文系頭なのは暗記中心の医学科の試験には有利なような気がします。

ツギオによると「全部暗記は不可能やから、理論を使うねん。そこに理系が必要やな。」とのこと。ふーん。母には方法論はよくわからないし、究極どうでもいい。知識と技量と単位を身に付けてくれさえすれば。

さて。東京医科大学入試事件。女子と多浪生に一律不利な採点方法をとっていたこと。これ、内部告発だと思います。採点方法のシステムを作る立場のかなり大学運営の中枢にいる人物でないと、ここまでの詳細はわかりません。「面接の内容での点」と言われたら、そこまでですから。

大体、校種に限らず入試の細かい採点基準や選考の経過の詳細なんてものはトップシークレットです。公立は税金で運用されているから公開義務が厳しく設定されてますが(うちの県の公立高校は請求されれば答案まで開示します)、それでもシークレットの部分はあります。

ここではっきり言いたいのは「多浪生差別と女性差別は本質とレベルが全く異なる」ということです。マスコミ報道もそのあたりについては曖昧ですが、ここを押さえておかないと、ジャーナリズムとしてはダメ!です。

いいですか。マスコミの皆さん(ここを見てる人はいないと思うけど)。分かりやすく言いますよ。

「多浪生には現役の時代があった。女子には男子だった時代はない」

つまり対等な立場で勝負できるチャンスがかつてあったケースと、自分には全く責任のない生来の条件でかつて一度も対等に勝負できるチャンスがなかったケースでは、不利益の深刻度が全く違うのです。

(戸籍の性別変更の例はありますが、受験のための変更はできません。)

いやー、分かりやすい差別例ですね。古式ゆかしすぎます。他校でもきっとありますよ。合格者のデータ見たら明らかに性差がある大学は多いですからね。だけど多分ここまで分かりやすくは出てきません。なぜなら前述の通り、「面接の内容による得点です」と言えば、それ以上メスが入れられないからです。現在調査中の学校が何校かあるとのことですが、内部告発がない限り、逃げると思います。(すでに記者会見をした大学も性差別の部分は否定していました。深刻度が浅い方だけをさっさと認めたように、私には思えました。)

そういう意味では、内部告発でしかわからないレベルの採点基準が陽の目にさらされた東京医大は、むしろまだ健全と言えるかもしれません。

国公立大学も、面接を課してそれを合否基準に算定している以上、不合理で恣意的な選別をしている可能性はあります。対岸の火事ではありません。(例えば国公立大学医学科の再受験者の扱いの差については、合格者における割合から分析しているサイトもあります。訴訟も起こっています。)

さて。何が差別で何が合理的基準なのか。それは時代によって変わります。昔なら当然だったことも、今の感覚で見ると差別である、というものも数多くあります。差別を見抜く力は知性によって築かれます。差別を見逃し、看過する知性はあり得ません。

もちろんどんな差別にも一見もっともらしい「理屈」があります。「女性は産休を取るから」「育児の忙しいときに現場を離れられると困る」「力を必要とする科がある」「長時間労働は女性に向かない」‥すべて理屈になっていません。

すべての女性が産休を取るわけではありません。また産休は労働基準法にも定められている労働者が出産する時の、雇用主に課せられた義務です。これを保障して困るのならば、それはその職場の労働環境が違法に不整備なのです。

育児は男性も担うべきものです。男性にも育児時間等を保障して現場を離れられる環境を整えるべきです。

力を必要とする作業に女性が向かないのならば、看護や介護はどうなっているのでしょうか。また力のない男性もいますし、そういう(力のいる)分野こそ、テクノロジーの出番ではないのでしょうか。私たちはことあるごとに「人工知能の発達で機械が人間にとって代わり、職が格段に減る時代が来る」と脅かされています。力のいる部分を機械がとって代わるようにできるはずです。

長時間労働は性別を問わず、すべての人間に向きません。

と、ここまで書いてきて、ふと感じるのは医師の特権意識です。あらゆる職業で意識改革を迫られている時代、「医業は別」と聖域視しているのならば、それは特権的優越感に根ざしていると自覚していただきたい。確かに医業は重要で立派な仕事ですが、だからといって人間の尊厳を侵害することが許される理由にはなりません。

そして、世界に視野を広げると、日本の、医師にしめる女性の割合がOECD諸国のなかで最下位という事実も見えてきます。韓国の22%に次いで20%という数字は先進国としてはかなりイレギュラーなものです。入試がすべからく差別的だから、ということではなく、長時間の過酷な労働が結果として女性をしめだしているからでしょう。

「だって現場は男の人が必要だから、仕方ない」と差別を擁護することはありません。この20%に私たちはもっと怒っていい。女性はもちろん、長時間の、力の必要な科にまわされて、家事育児に本格的に関わることを許されない前提で合格、採用される男性も怒っていいのです。この社会のシステムの不備は、「一億総活躍社会」の構築を謳う政府が、最優先で是正することでしょう。←もちろん皮肉です。







長らく更新してないんですが、アクセスが0になることはあまりなくて、1日2~3人は閲覧してくれているみたいです。もちろん0の日もありますけどね。こんな放置しているブログにわざわざアクセスくださる方、本当にありがとうございます。

さて、いくつか医学生(の傍観者)ネタを紹介いたします。


昨年4月から大学の近くに部屋を借り、あこがれの一人暮らしをはじめた次男ツギオです。


部屋は父親と決めに行っていましたが、前に借りていた人が国家試験合格確認後、就職直前まで住んでいたらしく、下見ができなかったそうです。内覧してから本契約、ということで4月半ばに行って参りました。医学科ではたまにあることだそうです。


不動産屋さんのおねえさんに案内してもらって、現地に行き、いろいろと確認。実家も通えない距離にあるわけではなし、仮住まいさえ確保できればいいわけで、本人が気に入ったらいいかー。というかんじで、ゆるーく見ておりました。


「あっそうそう。この近くに仲のいいクラスの子が住んでいるかもって言ってたよね。住んでた?」

と聞いたら、 不動産屋さんのおねえさん、「夜中にお酒飲んで騒いだりは絶対しないでくださいねっ!」とツギオが返事する間もないくらい速攻で釘を刺しました。それまでのにこやかな雰囲気とは別人のように厳しい表情と口調だったのでちょっとびっくりしたんですが・・・。ま、不動産屋としたらそうですよね。学生に部屋を貸したらそういうご近所の苦情には苦労されていると思います。そこでツギオのセリフ。


「あー、大丈夫です。その同級生、30代後半なんで。騒いだりはしないと思います。」私の方を向いて「『子』じゃないねん。『人』やねん。」


なるほどね。入学式の時隣に座った人が結婚指輪していて、どうみても30代以上って言ってたけど(その人は子持ちの妻帯者なので、近くには住んでいないらしいから今の話題の人物とは別人らしい)、再受験生がいっぱいいるのよねえ。いいことだ。いっぱいいろんなことを教えてもらいなさい…とうんうん、うなずいておねえさんの方を見たら、


鳩が豆鉄砲を食らったような顔


ってまさしくこんな顔だよね、という表情で固まってました。いやいやいや、おねえさん。あるから、医学科は。そんなにびっくりしなくとも。


ついでに、別の同級生のことだけれども、とある世界的有名企業(化学系)の研究職を退職して受験→入学してきた人がいるらしい。

「えっ、あんたそんな人といっしょに化学の実験なんかやってるわけ?」
「いや、班は違うで。」…いや、そういう意味じゃなく。


多浪生、再受験生はいわば学校の宝といっても過言ではない、と私自身は思っていて、そんな方々と仲良くしてもらえてるなんてありがたいかぎりです。

ご無沙汰しています。3月末にナガオが下宿をはじめ、その3週間後にツギオが下宿に旅立っていきました。夫の車にリサイクルショップで入手した2000円の冷蔵庫と、500円の机といす(どちらも中古)。新品格安の布団一式と電子レンジを積み込んで、ツギオは車に乗ろうとしました。

 

私はうるうると涙目になって、「元気でね。」と言うと、ツギオは

 

「え?今日帰ってきて晩ご飯食べるで」と、けろっと言いました。はあ?

 

うるうるを返せ。

 

毎週、塾のバイトで家から電車で15分のところまで帰ってきてるそうです…をい。

ま、実習の多い医学科じゃなかったら充分通学できる距離だからな。

 

子どもが二人とも突然いなくなって、さみしくなるなあ、と思っていました。さみしくなりましたが同時に

 

何、この開放感。

 

私あんまり面倒見るタイプの母親じゃないんですけど(わかりますよね、ブログ読んでくれたら)、それでも週に4回は晩ご飯をちゃんと作っておりました(あとの3回は夫の仕事)。ツギオの2浪目までは毎日弁当を作っておりました。それがいきなり夫と二人の生活になると「今日は宴会で晩ご飯いらん」「あっそ。」「今日はちょっと残業で遅くなるから個食でいこか。」「了解。」てなもんで、なんかめちゃめちゃ開放感あるんですけど。子どもできる前は確かにそうだったわ。ちょっと思い出したかも。

 

で、西医体でございますねえ。ツギオのクラブは髪の毛染めたりする習慣はないんだそうですが(なんだつまんねー)、ぶっ飛んだ髪型&色にする学生も多いんだそうですね。今年は徳島大学が主管(幹事)校だそうで、ほとんどが徳島周辺で開催されるようでございます。

 

はっ。応援に行くという発想はなかった。

 

去年は自分の仕事のクラブ付き添いでそれどころじゃなかったけど、今年は行こうと思えばいけたなあ。←あとのまつり

来年はめぐりとしたら九州だよねえ。←遠いから行こうとは思わない

 

別にわざと距離を置いて自立を促すというつもりは全くなく、ケアワークからは徹底的に遠い母なのでした。

昨年4月に「今年は受験する」宣言をした長男ナガオですが、某国公立大学工学部機械工学系統学科に合格をいただきました。



いわゆる難関校ではありません。そして目新しい人気の学科でもありません。昔ながらの機械工学系統です。でもナガオは次男ツギオとちがって純粋理系なので、ま、合ってるんじゃないでしょうか。



いやー。それにしても今年のナガオの状況をみていて、改めて医学科の受験の厳しさというか、尋常じゃない状態をふりかえりましたわ。



さて、ホグワーツ魔法学校(のような医学科)に通うツギオですが、無事進級が決まり、バイトに勉強にクラブに、楽しそうです。相変わらず口角炎ができてますけど。



ナガオの通う予定の大学はツギオの大学より遠いので、下宿です。合格発表より前に押さえとけというアドバイスを受けて、もう押さえております。大学の生協の斡旋だから、落ちたときの予約の取り消しや受かったときの契約までの段取りも、システムがきちんと構築されており、安心できました。



ツギオも実習が忙しくなるというので、4月から部屋を借ります。1家族3世帯という、贅沢な生活のはじまりです。



ナガオの育児休業が明ける10日前、保育所への慣らし保育で初めて預けた日。1歳の誕生日の10日前でした。いつもいつも一緒だったのに、預けて帰ってきた自宅にはナガオはおらず(預けてきたから当たり前だ)、その静寂さに身体の一部をなくしたような喪失感を感じてポロポロ泣きました。



4月になったらそんな気分を思い出すのかな。



そもそも「ああ、ナガオは私とは別の人間なんだ」、と実感したのは生後1ヶ月検診でした。妊娠しているときは私の保険証1枚ですんだのに、ナガオは夫の扶養家族に入れたので(ツギオは私の扶養家族です)、夫の保険証が必要だったからです(当時はまだ保険証は個人別のカードにはなっていませんでした)。



達者で暮らせ。(←在来線でツギオは1時間ちょっと、ナガオは2時間足らずの距離なのにおおげさではある)


1月に引いたおみくじ、貼り付けときます。



2016年Amebaおみくじ結果

また書きかけ文章が消えた…数行だけど。どうもアメブロは慣れないなあ。下書きなしで書く私が悪いんだけどね。はー。(←やさぐれる)


気を取り直して、本論を。


「神様のカルテ」(夏川草介著 小学館文庫)の作者は医師です。地方都市の病院に勤める主人公の医師の日常を描いた小説で、「地域医療の現状が描かれているので、医学科面接のネタにいいんじゃないか」という意見をネットで見て、つい2月にamazonで古書を購入してしまったんですね。


いや、私が受けるんじゃないですけど(笑)。


まあね、これでも就職志望生徒の面接練習は相当しましたんでね。何か役に立てるんじゃないかなんてちらっと思っちゃったんですね。役になんか立てないです、当然のことながら。面接で求められるものがまったく違いますから。クリックしてすぐに気がついたから、読まずに積んであったわけです。


「『神様のカルテ』買うてもうたわ。」と言うと次男ツギオは「こっちの方が(面接には)いいらしい。」と「悪医」(久坂部羊著 朝日新聞出版)を見せてくれました。予備校でもらったリーフレットに載っていたとのことです。こちらも作者は医師で、「第3回日本医療小説大賞受賞作」と帯に書いてありました。


その二冊を「火花」で勢いついたこの秋に、一気に読んでみました。


まず、「神様のカルテ」。これはファンタジーだと感じました。医療を扱ったファンタジー小説。あくまで私の感想ですけどね。サイダーのような爽やかな飲み心地で、末期ガン患者とのふれあいのクライマックスは確かに泣けます。飛行機での移動中にぽろぽろ泣きながら読みました。飛行機でよかった。電車なら向かい合っているので、54歳にもなってぼーぼー涙流すの恥ずかしい。


いやー、だけど面接ネタには正直弱いなあ・・・というのが感想です。地域医療のこともそんなに食い込んで描いているわけでもない。「手が足りなくて忙しい」様子はたびたび出てくるけれども、都会の人手のない病院との違いはどうなのか。そのあたりは私はあまり読み込めませんでした。これを入り口に、本格的に地域医療への考えを組み立てるのはできなくはないけれども、それはサイダーを主たる原料にしてしっかりした栄養バランスのある献立を作るのが難しいのと同じくらい、力業が必要だなあ、と思えました。


で、「悪医」。これはきつかったですね。逆に「神様のカルテ」にあった「治療を打ち切られた末期ガン患者の思い」に関しては、こちらの小説の方がしっかり描かれています。というか、それがテーマ。2人の人物を中心に、話は展開していきます。末期ガンで治療の打ち切りを宣告される患者と、宣告する医師と。


治療の打ち切りに「先生は、私に死ねと言うんですか。」と患者は抗議をします。医師にしてみれば強い副作用を伴うにもかかわらず効果がほとんどない治療を続けることよりも、治療を打ち切って残りの数ヶ月を悔いなく生きることに意識を注ぐ方がよいと判断し、「誠実」であろうとしての宣告だとの信念がある。医師と患者の立場は相容れず、患者は医師を怒鳴りつけ、病院を去る。そこからの6ヶ月間の2人の生活が淡々と描かれていきます。


患者の方に未来はないのです。余命3ヶ月を宣告されて、治療の意味がない、と言われてしまっているわけですから。そしてこの主人公には家族はありません。単身で、蓄えもさほどありません。それでもなんとか治そうともがき、保険のきかない「がん薬物療法専門医」にすがる。だけど当然ながら治すことはできません。


肉体がむしばまれいのちを削る苦痛の中にあるときに心が平穏ではいられない。主人公のすさんだ言動には小説内の登場人物たちも傷つけられますが、読み手のこちらもつらい気持ちにさせられます。サイダーのような口当たりのよさは全くなく、爽快感のある涙を流してはいられない。鬱々たる読み心地です。


ネタバレになりますが、一つだけ書いておくとそれでも救いはあります。ほんの一筋の光ですが。


生きるとは何なのか、治療とは何なのか、医師としての誠実さとは、などいろいろと考えさせられる、青汁のような小説でした。

しかしこれ読んだら外科医とか腫瘍医とか、絶対やりたくないな、私なら。いや、やれませんけど。


「あんたさー、よくこんな小説読んで、医学科に進む気がそがれなかったよね。」と言うとツギオは「あー、あの小説な、あれはさすがにキツかったな。」と言っていました。でもそれは過去形ではなく現在進行形で背負っていくものなんですよね。


こちらは面接のネタはともかく、医業というものを考える一つの材料になるかもしれません。

ご無沙汰しています。


一度投稿したら不具合で消えてしまって、やさぐれてました。…やさぐれからは3日くらいで立ち直ったのですが(それでも3日はかかった)、このブログは受験の記録なんで、どうも更新しにくいです。次男ツギオの医学生ライフ傍観記も書いていきたい気はありますが、以前触れたように、せまい世界なのですぐに個人が特定されてしまいそうで、それもなあ。



えーっと、今回はですね、まあなんというか、医学科受験に役に立つ(…かもしれない。というより役に立たないことが判明する…かもしれない)テーマをおひとつ。



ことの発端は又吉直樹氏の「火花」が、職場の図書室にあったことです。貸し出しから返還されたばかりで、返還ラックに入れてあったんですね。たまたま見かけて「これ、公立図書館なんかでは何週間も待たされるんだろうな、今」と思って、つい借りてしまったのでした。



ふだん小説は読まないんですよ、私は。文字によるフィクションには興味がないのです。ノンフィクションは読みますよ。新聞も好きです。でも小説は好きじゃない。ドラマも見ません。TVも、フィクションよりノンフィクション、ニュース、ドキュメンタリー、いいとこバラエティですね。何でだと言われたら、好きじゃない、としかいいようがないんですが。



子ども育てながらのフルタイム就労生活では、フィクションを楽しむ余裕がなかったんでしょうね。



で、「火花」ですよ。これがよかったんです、私には。いやあ、「美しい小説」でした。文章が濃密で何一つ無駄がなく美しい。内容も、青春の一瞬の輝きが哀しくて美しい。花火の日にはじまり花火の日で終わるのですが、花火の刹那性と、主人公たちが目指す青春の夢の刹那性、真剣に真摯に人生かけて極めようとする「お笑い」をめぐっての火花、これも刹那的な美しさに輝くものですよね。



描かれている世界は、売れない芸人の生活なので卑俗的なんですが、その中にある青春期の精神のピュアさが心に沁みます。しかし多くの人間はピュアで居続けることはできないんですね。夢をあきらめる主人公と、ピュア故に世間に受け入れられない「師匠」と。



芸能や文学や芸術、スポーツなど若い頃に目指すものがあった人にはたまらない小説ではないかと思いました。逆に夢のまっただ中の10代~20代にはピンと来ないかも。



そしてこれは「文学」ですからね、ノンフィクションと違って個人の好みや感性を選びます。ま、ようするに私のまわりの人たちの評判はまったくもってよくないんですね。「文章がもって回っていてくどい」「自分のまわりの日常を描いただけじゃないですか」…国語教師以外の友人の評価です。そうかなあ。美しくて哀しくて、遠い日の花火のような小説だと思うんだけどなあ。



えー、ほんで、です。何が医学科受験やねんということですが、これに調子づいて、3月に入手していた「神様のカルテ」(夏川草介)と「悪医」(久坂部羊)を読んだのです。<この項つづく>






ご無沙汰しています。

次男ツギオは毎日ホグワーツ魔法学校(のような医学部)に通っています。

5月に現れた口角炎がまだ治っていません。口内炎もあるようです。

医学科は入ってからが大変、といろんなところで耳にしますが、やはり大変そうです。何がと言われたらまず(これは学部・学科関係ない)、遠い。

高校は自転車で10分、予備校も30分以内で到着するところに通っていたから一時間以上かけて通うという経験が親にも子にもない。保育所は自転車で7分、小学校は歩いて5分、中学校は歩いて10分でした。


授業もびっしりつまっているみたいです。空き時間はレポート作成に費やすらしい。運動部に入ったので、毎日ではないけれど練習があります。練習のない日は塾でバイト。

そんな雀の涙のバイト料で身体壊したら本末転倒やで、倒れる前に辞めや、それくらいのお金ならなんとでもなんねんから、と言い聞かせてますが、バイトなるものをやってみたいんでしょう。時給は単純労働よりはやや高めですが、実働時間数が少ないので、本当に雀の涙だと思います(細目は知らない)。

受験生時代は家で勉強することはあまりなかったですが、入学後は何だかんだとやってます。提出物がやたら多いもようです。


そんなこんな4ヶ月でしたが、前期の試験も一区切りしたようで、「まあ、いけたと思う。」落ちやすい科目、落ちにくい科目などの情報はクラブの先輩からかなり詳細なものをもらっているようです。たのむで。二浪で最短六年間ということは、スムーズにいっても卒業までですら一般の四年制大学の2倍の時間かかんねんからな。定年後に退職金から学費出し続けるのはいややで。


ところで、この正月、保育所時代の担任の先生から年賀状をいただきました。クラスのみんなに「成人式おめでとう」のメッセージだったようです。ツギオが医学科を目指して二浪していることは、別に秘密にもしてませんでしたから先生の耳にも入っていたのでしょう。「応援してるよ!」というメッセージもあったようです。(ありがたいことです 涙)


返事出したんか?「出した・・・と思うで。」”思う”はあかん!それにもし出してたとしてもその時は入試の結果わかってへんやろ。ちゃんと合格の報告をしなさい。暑中見舞いがチャンスやから!ほら、かもめーる、買ってきたの1枚あげるから!7月入ったらちゃんと出すねんで!


↑上の会話が6月の半ば。7月の下旬に「なんて書いたらいいかなー」と言いながら、食卓で書いてました(自分の部屋で書け)。…さきほどリビングの「ツギオのモノ塚」でかもめーる発見。こいつ!絶対年賀状の返事も出してないむかっむかっむかっ



大学のレポート、大丈夫か??


大学のことは親はあずかり知らないけど、保育所の先生への不義理は許しません!帰ってきたら説教じゃ爆弾


ご無沙汰しています。
更新あまりしていないのに、来てくださっている方、すみません。そしてありがとうございます。

昨日、この記事を更新したつもりなのに、どこかに消滅しちゃったみたいです。消えた記事が復活したら、消しますね。どうなってんだ、アメブロ。(←たぶん99.9%自分の操作ミスだからあまり自信持って文句言えない)


ツギオは機嫌よくホグワーツ(みたいな医学科)に通っています。個別指導の学習塾の講師採用テストを受けたらしいですが、


落ちてました。


ほんっとよく受かったな、大学(3年がかりといえど)。二つめの塾で採用されたようです。


ところで、医学科はやっぱりホグワーツ魔法学校なんじゃないかと思えることがありました。いろんな学校で蛇をデザインしたマークが使われているのです。ギリシャ神話のアスクレピオスの杖が由来らしいです。アスクレピオスは太陽神アポロンと人間との子どもで、成長して優れた医術を身につけ、死者でさえ生き返らせることができてしまったため「怒られてん」(ツギオ談:いや単に怒られたんじゃなくて、Wikipediaによると殺されてますけど…)。


世界保健機関や米国医師会、世界各国の救急車のマークに使われているらしいです。へー。医療関係者はみんなスリザリンか。(ちがう)あっ、でもハリー・ポッターもスリザリン気質が混じってるという設定でしたよね。蛇と話せるし。


なんかホグワーツっぽくて面白かったので、息子さんが防衛医科大出身という同僚に話したら防衛医科大の校章にも蛇の巻き付いた杖が使われている、と言っていました。蛇が二匹で羽があるからヘルメスの杖ケリュケイオンのようですが(公式見解では羽は「鳩」だそうです)。


先日、職場で進路ホームルームがありました。医療系大学(医学部はないです)から来ていただいて高校生にお話をしていただきました。印象に残ったのは「親に資格を取れと勧められて進学してきた、自分の意志が確立していない生徒は、まず続かない」という言葉でした。いるんですよ、「自分はあまり興味がないけれども親が強くすすめるので看護師を志望する」っていう子が結構。ほとんどは受験するまでに志望を修正しますけどね。明らかに向いていない子には「本当にそれでいいのかな?」という話も膝を詰めてしますし。


ところで、更新がゆるゆるなんですが(あまり積極的にする気はない)、そうすると受験関係の業者さんが最新記事に「いいね!」してくださるんですね。いいんですけどね。でもちゃんと記事読んでくれてますかあ?受験関係業者のみなさん。「衝撃の一言」は全く受験関係ないですよ。DV、モラルハラスメント、女性の人権関連なんですけど。


業者のみなさん!!「いいね!」どうもありがとうございます。女性の人権保障やDV、モラルハラスメント、虐待などなどの被害者支援にもご協力よろしくお願いしますね。
☆⌒(*^∀°)v

職業上DV,モラルハラスメント、虐待などの被害者支援にかかわることもあります。

生徒ではなく、同僚がDV被害を受けているのがわかったことがありました。生徒のことで一緒に走り回っていた、同世代の同じ学年の担任の一人でした。

「実は自分も夫に暴力を受けている」と打ち明けてくれました。そのあとすぐに「でも私が悪いねん。怒らすこと言ってしまうから。」

彼女は絶対に人を攻撃する人ではありません。穏やかな物腰の人です。親しくなってからも、感情的な言動を目にしたことはありません。

「それは違うよ。どんなに腹のたつことを言ったとしても、暴力を振るうのは絶対に振るう人が悪い。それに会社の人相手にはそういうことしないんでしょう。あなただから殴るのは、甘えてるんよ。でも彼の甘えであなたが傷つくことはない。殴られていい人も、殴られても仕方がないなんていう状況も、この世にはない。」

というようなことを言うと、彼女はじっと私の目を見て「どうしたらちどりちゃんのように対等に考えることができるの。」
と言いました。

どうしたら、って。私の頭の中は真っ白になってくらくらしました。「どんな人も人間として対等」…基本的人権の尊重、憲法第14条両性の本質的平等。彼女はきっと中学の公民でも高校の政治・経済でも正解してきたと思うんです。暗唱だってしてると思う。なのになぜ、夫と自分は人間として対等であり、殴られていい存在じゃないのだという当たり前のことを理解するのに、彼女は努力しなければならないのでしょうか。

そんなことにいちいち努力しなければいけないなんて、あまりにも理不尽じゃないですか。

ひとつはDVの渦中で心がとても弱っていたからでしょう。でも。学校の教育は一体何をしているんでしょう(←すみません。自虐的に言ってます)。

学んだことを生かせていない。生かせるように学ばせられない、学校。その最先端にいる私。

妻は夫を「主人」と呼ばされ(日本には夫婦が対等に相手を表す外向きの言葉すらない)
、従うことを「美徳」として、じわりと、しかも強烈に強要する、社会。

彼女はその後、力をふりしぼって夫と話し合いました。「暴力を振るわないでほしい。暴力を私に振るわないようにするにはどうしたらいい?」

夫は話し合いに応じたそうです。彼も失業のフラストレーションを彼女にぶつけている自分の不条理さの自覚はあったのでしょう。しばらく考えて出てきた言葉は「離婚して、籍をぬいたら暴力を振るわなくなると思う」。

これを聞いたときの衝撃。いや、彼女が受けた衝撃ではありません。彼女も受けたのかもしれないですが。私が、なにも関係ない私自身が衝撃を受けました。

「夫婦として入籍している関係なら殴ってもいと思っているんだ!」

その後、彼女は離婚しました。失業して住むところがないのでしばらく置いてくれと懇願され、籍を抜いてからも同居していた時期があったのですが、本当に暴力は止んだそうです。

「結婚」に付加価値をつけることのおそろしさ。夫婦だって親子だって、独立した個人なのです。その当たり前のことを大切にしたいと考える、経験のひとつです。

5月27日はワタクシの誕生日でした。

この誕生日、季節的には大変気に入っているのですが、スケジュール的にはしんどいです。


学生時代は中間考査のまっただ中。就職してからは採点日のまっただ中。休日はいろいろと予定を入れているので平日決戦のワタクシは、連日半徹夜状態で採点を仕上げます。


誕生日は半徹夜はさすがにやめておこうと、夜の9時前に職場を出て自宅最寄り駅に着いたのが9時半頃。お目当てのケーキ屋は閉まってました。ひょっとして夫がケーキ類を買ってくれているかも、という文字通り甘い期待を胸に帰宅すると、みんな食事を終えて部屋にこもってました。


ひとりで食事を温めてもそもそ食べていると夫が目の前に来たので「今日誕生日やで」といってみた。すると「うん、そうやけど、去年もその前も、ワインとかあげたのにあんまりうれしそうちゃうかったからもうなにもいらんかな、と思って(用意していない)。」


えーっ。


「僕の誕生日も何もなかったし。」



…。…。すまん。



いや、あの、プレゼントはいらないけど、ケーキとか、お茶碗洗ってあげるとか(うちは作らなかった方が洗う。完全当番制)、なんかないかな?せめて「おめでとう」とか、なんとか。



ちょっと悲しかったけど、悲しんでいるヒマはないのですっくと立ち上がって抹茶と砂糖と牛乳とゼラチンで抹茶プリンを自分で作った。翌朝食べた。うまかった。



自主自律な54歳最初の日。



ちなみに翌朝「昨日お母さんのお誕生日でした。なにもないから自分で抹茶プリンを作った。君らの分も作ったからいるなら食べてよし。食べないなら全部お母さんが食べる。」と言ったときの反応。



長男ナガオ「(悪かったという顔をして)ごめん。おたんじょうびおめでとう。」


次男ツギオ「すねんといてー。おととい『お誕生日おめでとう』ゆーたやんかー(ニコニコ)」



こんなドライな生活、結構気に入っています。