今日午後1時50分に再放送される「知恵泉」を見てみてください!

山内一豊の妻千代の、夫を出世に尽くした女性をたたえて、紹介されていますので、ご確認してください。

この番組では、山内千代を讃えて、終始していました。

でも、私は、この薦め方は、おかしい!智子思ったのです。

豊臣秀吉のよ( 代)で、妻の寧々(ねね)は、夫秀吉の嫡男、豊臣秀頼が繋ぐのを許せず、秀吉の家臣たちすべてに

「『徳川につけ!』『徳川につけ!』」

と、といて回わり、豊臣秀吉の家臣たちだけではなく、

豊臣秀吉の家臣の妻たちにも、いつも、ねねの取り巻きとして、大阪城に集め、趣味に、噂話に、凝って集まっていた、妻たちにも、山内一豊の妻千代を筆頭に、贈り物に隠して、行き渡らせた!と言う!

この執念深く

『夫を、徳川家に付くよう!伝えよ!』

指示して、豊臣秀吉が信頼して止まなかった、加藤清正、福島政則等家臣すべてと、ねねの元にはべらせていた、秀吉家臣すべてに、指令し、走り回ったのです!

歴史研究者も、両論有るので、何とも言えないのですが、でも、この歴史も、耳に入れて置いていただきたいです。

ねねのこの妄執に従った、加藤清正は、自分で建てた、熊本城に、自分は、ねねに従って、生きて行くが、熊本城に、豊臣秀吉の嫡男、豊臣秀頼を偲んで、

“天国の間”

と言う、隠し部屋をつくって、忍んでいた。そして、徳川の世で、徳川の城造りに活躍し続けていたが、3代目の徳川家光に

「未だ、豊臣秀頼に、気持ちが有る!」

と、言われ、廃役になってしまうのです…が

当時の福島政則は、

「豊臣秀頼の扱い方が、話が違って居るではないか!」

と、抗議して、はいえきになり、失墜して行ったのです。

この「知恵泉」では、このねねの行動と、それに同調した、ねねの取り巻きの奥方の働きをかいむ(皆無)にして、伝えていました。

どうか、両論が有ることを、分かってください。


徳川家康の家臣で、このような女も走り回った女、人物は無く、一生徳川家康を守りきった、穏やかで、力強い家臣ばかりだったので、それは、恐ろしく感じていたのではないか?だから、200年も、自分の子孫に繋がるよう、気をつけてていた。と思います。よろしくお願いします🤲。