不良部長が人生をゼロから再設計するブログ

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製薬企業勤務 あるとき43歳へ逆戻り 

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2020は人生で一番楽しかった。南の島でずっーーとテレワーク。後半はGO TOキャンペーンのお土産もあった。

論文もたくさん書いたし,業績も残した。多くの気づきもあり,これからの1年かけて,その後の15年の設計をする。

初めて中国を訪れたのは大学1年。香港から国境に架かる長い橋を重たいリュックを背負って渡った。渡り終えたところで廣州行きの列車に乗り換えたが、車中で食べた鶏がら入りの駅弁がおいしかったことだけを覚えている。次に廣州から上海まで、たぶん当時外国人にはご法度だった長距離バスで上海に向かった。シートに穴が開いたボロボロのバス。床は隣の乗客が吐いたヒマワリの種ですぐに一杯になった。そのハムスターの檻のようなバスで、真っ暗闇の道をひたすら北上した。途中数時間ごとにトイレ休憩があり、夜中も開いているドライブイン(揚げパンを売る駄菓子屋のような)でバスは停車した。そして、何度目かの真夜中のドライブインでそのアクシデントは起きた。

香港で風邪気味だったが、ここにきて体調が悪化していた。休憩で厠所(トイレ)に向かうが、どこを探してもそれらしき場所はない。風邪で注意力散漫な状態で、うろついているとずぼっと足がはまる。最初、泥かと思ったが、異臭ですぐに違うことに気が付いた。厠所は単に穴があるだけで、落とし穴にはまるようにまんまと落ちてしまったのだ。乗客が奇異な目、というか勘弁してくれよ。おまえそんなんでバスに乗るのかという感じで見つめる中、水瓶から水をすくい靴下を脱ぎ捨て、足を洗う。替えの靴など持参していないので靴は洗い、また履く。今に至るまで、これほど非衛生的な経験はない(エキノコックスに感染したキタキツネの血液から茶こしで原虫を採取し、そのことを忘れて同じ茶こしでお茶を飲んだことはあるが、それよりずっとショックだった)。この後、18時間ほど、この状態でバスに乗らなければならないのだから、当然絶望的な気分になった。ただ、咳がひどく、熱もでてきたため、上海までこの非衛生的な状況を少し忘れることができたことは、不幸中の幸い、というか不幸中の不幸だった(ウエバー・フェヒナーの法則“辛い事を忘れさせてくれるのはより辛い事を体験すること”という法則???)。

翌日、日暮れ時、バスはやっと上海に到着。駅近くの駐車場のようなところで降ろされた。すでに悪寒がひどく、歩くのがやっとの状態で、もう靴のことはどうでもよくなっていた。まずは宿を探し。目についたホテルを回りヨウメイヨウコンファン(部屋ある?)とたずねるも、メイヨウラ(ないよ)と非情な返事ばかり。身なりと悪臭のせいなのか?本当にないのか?ことごとく断られた。それなら体力のあるうちに友人の住む蘇州に向かい助けてもらおうと決心し、上海駅に戻った。当時の上海駅は夜でも多くの人でごった返していた。特に切符売り場は長蛇の列。さらに横入りは当然で、このままだと何時間かかるかわからないし、それ以前に体が持たないと思い駅長室(のようなところ)へ駆け込んだ。するとなんのことはない、外国人は並ばなくてもその場で発券してくれた。それは中国旅行で本当に数少ないラッキーだった。そして、ぎゅうぎゅう詰めで身動きができない列車(日本のラッシュアワーでも経験したことがない混雑の上に、皆自転車やら箪笥やらを持参して乗り込むので中腰の状態のぎゅうぎゅう詰め)に乗り、留学中の友人の家がある蘇州へ向かった。

いつ倒れてもおかしくない状態で蘇州到着。蘇州駅は上海駅よりだいぶ小さかったが、夜にも関わらず降りるとリキシャ曳きが沢山寄ってきた。一時帰国していた友人の家の住所を書くと、さらに何人ものリキシャ曳きが寄ってきて、言い合いを始めた。しばらくすると、そのうちの一人が任せておけみたいなしぐさで、荷物を引き取り、リヤカーを曳き始めた(人力車ではなくリアカーだった)。何人かは、やめとけというようなしぐさで止めようとしたが、そのリキシャ曳きはうきうきした様子で振り切って歩き始めた。何故か、すれ違う同業者に満面の笑みを浮かべて、大声で何か叫んでいた。すごい客だみたいな感じで。私も、あと少しの辛抱できっと暖かいお風呂に入り、そして布団で眠れるとことを想像して、うれしくなった。ただ、数十分走っても、到着する雰囲気が全くない。すでに民家の灯りも消え、寒々とした田舎道をリヤカーは走る。うれしさより、心配が大きくなってくる。また憔悴してはいたが、熱がひどく、これ以上のリヤカー旅行は限界だった。いつになったら着くんだい?リキシャ曳きを止めてたずねた。明日の朝”―――“ガーン
確かに確かめなかった私に落ち度があった。リキシャなら少なくとも数十分以内で着くと常識的に考え、リキシャ曳き同士の言い争いの理由を深く考えなかった私がわるうございました。たぶん、やめておけ“”いや行けると言いあっていたんだろう。直ちに一番近い、ホテルに目的地を変更。リキシャ曳きはなかなか諦めてくれなかったが同じだけ払うことで、やっと交渉成立。確か、鑑真のお寺(寒山寺)の近くのホテルだったと思う。千円ほどリキシャ曳きに渡し降りた。この時点で、体力、気力は完全に限界を超えていたので、次のホテルという選択肢はなかった。果たして答えはやはりメイヨウラ(空き室ないよ)だった。それを聞いてホテルのロビーのソファーに倒れこむ。すでに疲れと高熱で動けなくなっていた。


---月落烏啼霜滿天
---江楓漁火對愁眠
---姑蘇城外寒山寺
---夜半鐘聲到客船

 

ちょうどその時、鹿島建設だったか熊谷組だったか、今となっては思い出せないが、大手ゼネコンの人が通りかかり言葉をかけてくれた。予期せぬハッピーエンドの始まりだった。俺たちは相部屋で構わないからと部屋を譲ってくれたのだ。無茶するなよと言って食べ物まで分けてくれた。ゼネコンと聞くと今でも温かい気持ちになる。


(2019年2月現在,ミキさんはカンクン近くのコスメルにいます)

 

初めて世界地図を見たとき、一番右端にある島々、日本から見れば極東の島々が気になって仕方がなかった。どんな景色が広がっているんだろう。永遠と砂浜が続いているんだろうか?人が住んでいるんだろうか?動物は?。。。いつか行ってみたい。

そして、このいつかを2012年7月4日と決めた。どの島に行こうか?調べてみると、プエルトリコの南にセント・トーマスという米国領(USVI)があった(カリブ海?大西洋?太平洋?)。日本からわざわざ大西洋までやってくる暇人はいないため、旅行ガイドブックには殆ど記載がなく、逆にそれが誘う。思い立ったのは5月。ターゲットは7月の独立記念日。出張や会議が入らないように周到に準備を始める。スキューバゴーグルとウェットスーツも新調。航空券も手配した。が、あれだけ万難を排して、準備していたにも関わらず、出発1週間前、大阪出張が入る....ここでキャンセルしたら永遠にいけないだろう。結局、USVI→マイアミ→シカゴ(着替え)→ロス→羽田→伊丹と乗り継ぎ、気を失わなければ大阪、朝9時の会議にぎりぎり間に合う、というスケジュールに。

セント・トーマスには独立記念日の3日前に到着した。空港から日本人が経営する民宿(Bed&Breakfast)に電話して迎えに来てもらう。そのBBは空港から40分ほど離れた、森の中にあった。UC Berkeley卒業の日本人青年とUCLAを卒業した奥さんが経営していた。荷物を下ろすとご主人がラムベースのカクテルを作ってくれた。このラム酒、いわゆる地酒、これが素晴らしい。3日間、ずっと飲んで過ごした。翌朝、まぶしいい日差しに目を覚ます。窓から外を見ると、野生のインコ、野生のイグアナがいたるところで遊んでいる。BBから5分ほどの港から20分ほどにダイビングポイントはあった。水深は20メート程度で浅いが、水は透き通っていて、巨大なカニやロブスターの群れ、ウミガメ、エイ、イサギの群れなど期待以上だった。日本ではスキューバは若者のスポーツだけれど、海外では大人?のスポーツ。客も40-60歳代が殆どで、落ち着いた雰囲気で楽しめる。2日間、潜っては、民宿で酒を仰いで過ごした。

セント・トーマス島の南部、Red hook地区は、お土産屋さんが並ぶ日本の漁村といった感じ。夜はバーがオープンしてそれなりに華やかではあるが、それも場末のバーと言う感じ。夢にまで見た島も、結局こんなもんか....そして最終日。

夕暮れまじか。車は急カーブを何度も曲がり、峠(写真)を越える。運転しているのは島で知り合ったミキさん。車は山の奥へ奥へと進む。真っ暗で人の気配が全くない。そして車は森を抜け島のはずれ、太平洋と大西洋が交わるビーチへと進む。ビーチにはバイクが数台泊まり、錆びたトタン屋根の下で、怪しい男たちがビールを飲んで騒いでいる。そのやばそうな店を過ぎると、先に屋台のような灯りが見えた。車を降りて歩く。星が燦然と輝く。息をのむほどの星の数。日高で馬のお産を手伝ったときに見た星空を思い出す。灯りの方から音楽が流れてくる。極東の島、そのさらにはずれの砂浜に流れていた曲、“あなたかわりはないですかー”津軽海峡冬景!!!

屋台のような、と思った建物は紛れもない砂浜に建つ屋台だった。暗闇に提灯が映える。カウンターに座る。そして、ブロンズのお姉さんが “いらっしゃいませ。。。。。”と流暢な日本語で話しかけてきた。吹く風も気持ちよく、酒も刺身もおいっしい。

 

ブロンズのお姉さん、大阪留学中に日本人青年と恋に落ち、実家のあるこの島に彼と移り住み、日本食の屋台を始めたとのこと。さっきのトタン屋根の店も彼女の店だった。

 

気が付くと連れてきてくれた日本人ダイバーのミキさんも昼間の勇敢さは消えて、潮風に長い髪をなびかせていた。

 

そう、小学校の時からあこがれていた極東の島には竜宮城があった。


翌朝、二日酔いのまま、飛行機に乗り,24時間かけて、大阪にたどり着いた。ロスから羽田まで爆睡した。とてもすがすがしい。でも、あれは夢だったのか?伊丹空港で鏡を見ると髪が少し白くなっていた。
 

 

 

 

若い時の旅は刺激に満ちていた。つい最近、仕事でまわったヨーロッパやアメリカの記憶はほとんど残っていないのに、20年も前の記憶は細部までしっかり脳の溝深くに刻まれている。

赤玉薬局

それは学部生の春休みだった。狸小路のはずれの古びたビル、スチール机が一つ二つあるだけのまるで警備室のような旅行代理店に世界中を旅したという40歳前の小太りのおっさんが一人いて、学生はそのおっさんから予め情報をもらってインドやヨーロッパへ旅立っていった。私もT君とタイへ行くことに決め、そのおっさんからエジプト航空の格安チケットを買った。前年、インドでマラリアに罹って死にかけた友人がいたので、おっさんからマラリア予防薬を売っているという、薬局を紹介してもらった。その薬局、赤玉薬局がどこにあったのか今では思い出せないが東京の小さな薬屋で、熱帯病研究所(だったと思う)という小さな看板が実験室らしき木造小屋の入口ににかけてあった。その薬局のおじさんは“一日一粒以上飲まないように“と言いながらマラリアピルとラベルが貼られた薬瓶をくれた(たぶんクロロキニーネだろう,薬機法違反だ)。500円ぐらいだったと思う。”蚊取り線香は現地で買うように、日本制はタイの蚊には効かない“とも忠告してくれた。これが旅の始まりだった。※ネット検索すると赤玉薬局は今でも存在しているようだ。

楽宮の夜

エジプト航空機はフィリピン経由で早朝バンコクに到着した。空港で仮眠後、予め調べておいた住宅地の近くのホテルに向かう。中庭にはハイビスカスや毛が生えた茶色の蘭(原種)の花が咲いていた。そこには2、3泊ぐらい宿泊しただろうか、市場からの帰りにホテルの近くの高級住宅街で野犬に追いかけられてとても怖かったのとフロントのお姉さんがきれいで優しかったことだけ覚えている。その後、バンコクでのバックパーカーの溜まり宿、楽宮飯店に移る。汚い。若いから泊まれたんだろう。この中国系宿は部屋数が20ほどしかなかったけれど、それ部屋数以上の娼婦が住んでいて、朝までドアをノックされた。出るまでノックが続くので仕方なくドアを開けてみるとまるで女子高生のような子がいつも立っていた。“部屋に入れてくれる“”いや結構“。そんなやり取りを朝まで続けた。朝、共同シャワーへ向かう。近くで洗濯ものを干している日本人男性がいたので声をかけた。数年前にこの宿に泊まり、その時、ここの女の子と恋に落ちて(恋に落ちると書くとロマンチックに聞こえるが)、そのまま住んでいるという。子供も一人いるという。いろんな人生があるもんだ。さて、うぶな男子には楽宮の夜は辛すぎるので、翌日、近くの旅社に移るが、そこはさらに気が遠くなるほど汚かった。シーツは黄色く変色し、虫食い穴だらけ。ベットの下にゴキブリを発見したので殺虫剤をまくと、その瞬間、100匹以上のゴキブリが一斉に飛び始める。体中にまつわりついてくるだけでなく、リュックサック、スニーカーの中にも入っていく。ヒッチコックの鳥のゴキブリバージョンだ。どっちが怖いか?慌てて荷物をまとめて部屋を飛び出し、初日に泊まったホテルに戻った。

誘拐

バンコクの中央駅(ホアランポール駅)でT君に再会し、チャンマイ行きの切符を買った。そのあと電車まで時間があったので二人で最後のバンコクを散策することにした。実はそれまで、市場(ゲンゴロウの串刺し料理)やタマサート大学の寄生虫など見て過ごし、観光地というところには立ち寄っていなかった。駅の近くの大通りでバスの路線図を広げて大きな寺院までの行き方を調べていると、かつてのボーイ・ジョージに似た背の高い女性が英語で話しかけてきた。彼女は、シンガポールからやってきた観光者だと名乗り、同じ寺院へちょうど向かおうとしていたところなので一緒にいかないか、という。こちらは男二人。何の疑いもなくオーケーした。すると、ほどなく近くにタクシーが止まる。彼女はそれにさっさと乗り込み、リュックが重そうだからタクシーで行きましょう、という。あっという間のことで何を考える間もなく、手招きされるままに乗り込む。するとタクシーの運転手とボーイ・ジョージ似の女がタイ語で何か話し始めた。確かシンガポールから来たと言ってたよなー。おかしいなー。ただ、その時点では世間知らずの大学生。しばらくするとタクシーは市街地を離れて、山の中の小道に入って行った。そしてやっと、”おかしい”が”やばい”に変わるが、すでになすすべなし。タクシーはどんどん山の中を進む。そして日本の田舎のよくあるような山中のモーテルに到着する。”ボーイ・ジョージ似が冷たいコーラを飲んでから目的の寺院へ行こう”と言いだし、T君を連れて行った。私はそのモーテルから出てきたボーイ・ジョージ似の友人という別の女の部屋に入れられた。他の仲間が別の部屋にいるに違いないので、抵抗はしなかった。”監禁され、殺されるに違いない。その前に、このモーテルから逃げださなければ。”必死で考えながら、促されるままに部屋に入った。”トイレどこ?”まずは、トイレの窓から逃げようと考えた。が、運悪くユニットバスで窓などどこにもなかった。天井にもちあげると開く、顔が入る程度の作業窓があったが、外に通じているとは思えない。どんなに考えても絶望的な状況だった。何分トイレにいただろうか。果たしてドアが激しくノックされ始めた。出たらどうなるんだろうか?殴られて、殺されるんだろうか?さらにドアのノックが激しくなった。ドアを開けて、入口に向かって走り、とにかく外へ逃げよう。思い切ってドアを開ける。すると、そこにはさっきの女が全裸で立っていた。そのままものすごい力でベットに押し倒され、服を脱がされた。気がつくと、パスポートや財布が入っているウェストバックははぎとられていた。何分ぐらい、抵抗しただろうか。突然、入り口のドアが蹴破られ、吹っ飛んだ。

 

(チャンマイから象と船を乗り継いで半日かけてアカ族の村にたどり着いたのは誘拐事件の2日後の夕方のことだ。ゴールデントライアングルに位置するその村ではやはりケシの栽培が行われているらしく、若者がうつろな目で、昼間かららりっており、民族衣装を着たおばあちゃんも横になりながら、黒い蝋蜜のようなアヘンにあぶって吸っていた。そんな村の高床式の家でインスタントラーメンをごちそうになり、夜は大きな暖炉の近くで、村の子供と雑魚寝した。2日前のことなどすっかり忘れて、自然の中で開放感を味わっていた。この続き、チェンマイ編はまた後日)

ドアから7,8人の拳銃を手にした男がなだれ込んだときは、何が起きたのか全く分からず、ホールドアップした状態で固まった。死ぬんだと思った。よく、走馬灯のように過去の記憶がよみがえるとか言うけれど、突然の事故や事件で死ぬときは、そんな余裕はなく、何の感情も、恐怖さえも湧かないようだ。さて、なだれ込んできた男たちに拳銃を向けられたとき、部屋には、裸の女以外に、その仲間2人が隠れていて、彼らも一斉にホールドアップした。そして拳銃軍団に促されるままに、全員が部屋の外に出された。外で殺されるのかと思いきや予想に反して、パトカーやオートバイが数台並んでいて、すでにT君はパトカーの中でうなだれて座っていた。その状況を見て初めて、地元警察による救出劇だったことがわかった。でも誰が通報してくれたんだろうか?最初はT君が最初に脱出して、通報してくれたんだと思ったが、そうではなかった。いずれにしても助かった。本来、とっても嬉しいはずなのに、暑さのためか、極度の緊張のためか、不思議に冷静だった。その後、犯人グループと僕らは別々の車に乗せられて、ホアランポーン駅近くのツアリストポリスのオフィスへ連れて行かれた。そこで強奪された全財産とパスポートが戻ってきた。中身を確認すると、どうもお金が減っている感じがしたので(それは私の勘違いだったのだが)、それを申し出ると警察官は後ろ手に手錠をかけられたボーイ・ジョージ似を目の前に連れてきて、いきなり彼女の髪をつかんだ。と、次の瞬間、彼女の髪がすっぽりと抜けた。君は彼らが女だと思っていたのか?と警官。彼らの本当の姿はこれだよと古いアルバムを取り出して見せてくれた。そこには男の姿があった。そういえば、確かに上半身は女だったが、下はずっとつけたままだった。そのあと放心状態の頭で英語の調書を1時間ほど書かされた。HeSheに書き換えて。これが誘拐事件の顛末だ。どうやって、警察が知ったかは、教えてあげない。

そんな事件があっても、なんとかチャンマイ行きの列車に間に合った。途中の駅でサトウキビと照り焼きチキン、シンハービールを買い、興奮を肴に飲んだ。

 

タイタニックより

Life is short, make it count.

countは『数える』という意味の他に 『価値あるものにする』を表す動詞。

ボクシングチャンピオン、モハメド・アリのセリフに似たものがある。

Don't count the days, make the days count.

過ぎ去っていく日々を数えるな。これからの日々を価値あるものにせよ。

モノレール発症の地、ヴッパタール(Wuppertal)はデュッセルドルフから30マイルほど東にある。世界で始めてアスピリンを合成した化学会社の大きな大きな研究所があり、一時期、毎月のように通った。デュッセルドルフは日航ホテルや三越もあり、日本料理店も多いので日本人ビジネスマンにはとってはありがたい街だ。日本からの直行便がないため、いつもフランクフルトからICEと呼ばれるドイツ版新幹線に乗ってデュセルドルフに向かう。風景がすばらしく、特にケルン駅(写真)は旅愁漂う。デュセルドルフの街自体も歴史的な彫刻が多く、落ち着いた街だ。いつか仕事ではなく、プライベートでゆっくり訪れたい。
モノレール

Wuppertalのモノレール:改札なし。車掌がたまに切符をチェック。無賃乗車のペナルティーはとっても高そう。

 

 

 

その日はひどい雨だった。ホテルでタクシーをひろう。ベンツのタクシー。運転手さんはかなり高齢のおじいちゃんだった。どっかの老人ホームから抜けでしてきた感じで、軽く70歳は超えている。動作が鈍い。トランクを開けるのも、とぼとぼという感じ。耳も遠いので紙に目的地を書いて渡す。

※ドイツでは大学を卒業している人は英語を話すが、例えばキオスクのお姉ちゃんはドイツ語しか話せない。

さて、このおじいちゃんドライバーはどうも耳がとおいだけではなく、英語もあまり話せないようだった。雨はどんどん激しくなり、ワイパーが追いつかないほどになっていた。ベンツタクシーは速度制限がないことで有名なアウトバーンを突っ走る。。おじいちゃんはアクセル全開。見る見る時速100キロを超え、さらに踏み続け時速130キロ超えた。怖い。全身に力が入る。おじいちゃんさらにアクセルを踏み込む。もしかして、呆けてスピード感覚麻痺しているのか?土砂降りの中、ついに140キロ超えた。“スローダウン、スローダウン“と言っても聞く耳全く持たない。それどころか、にやっと笑っている。20分ほど走っただろうか。高速道路を降りるときは本当に”助かった”という感じだった。ベンツは山道に入る。馬に注意という看板が目に入る。そして研究所のセキュリティーゲートを抜けて無事目的地に到着した。

 

ドイツに訪れると今でもあのスピード狂のタクシードライバーを思い出す。ソウルの仁川からのタクシーも時速130キロ越えは普通だけれど,あの土砂降りのアウトバーンには及ばない。

 

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ライン川

 

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ケルン駅

This letter really struk a chord with the colleagues who work there and reminded us what our work is really about.

先日、いつもは冗談ばかりの同僚がまじめな顔で話し始めた。お母さんがガンで闘病生活を送っている子供から手書きの手紙を受け取ったという「よく効く薬があったらすぐにちょうだい」と書いてあった。ミーティングの後、その手紙がPFD化されて、メール添付で送られてきた。”琴線いふれる”は英語が語原か??strike a chord 、”琴線に触れる”。





 

”Every evil, terrible things that ever occurs in the world is directly offset and counterbalanced, if you will, by the complete utter joy of bite into an Eskimo Pie"

エスキモーパイひと口食べてみろよ。宇宙で起きている恐ろしいことや悲しいことだってが、帳消しにできるぜ。ほんのわずかな楽しみでバランスがとれるんだ!

ラグナビーチやサンディエゴの太平洋に沈む夕日。コラプス・クリスティーやキーウェストのガルフ湾に沈む夕日、バハマのカリブ海に沈む夕日。バージン諸島の大西洋に沈む夕日。ペナン島のインド洋に沈む夕日。でも、一番、記憶に残っているのはカラチ、朦朧とした意識の中で見たアラビア海に沈む夕日だ。

 

1990年1月4日。パキスタン北部サッカルで起きた列車事故の死者は210名。人生、何が幸いするかわからない。もし、パキスタン空軍に拘束されていなければ、このモヘンジョ・ダロ発カラチ行きの列車に乗っていて、今日の自分はなかったかもしれない。
 

旅はパキスタンの首都、イスラマバード、旧市街ラワールビンディーとのツイン都市から始まった。新旧入り混じった魅力的な都市。吹く風も冷たい年の暮れ。まずは中央駅に隣接するテント張りの特設市場で、防寒具を調達。ロシア帽とマントを調達して、すっかり異教徒気分だった。銀細工、革細工、絨毯、香辛料の店を物色してはチャイをすする。殆どは1階がお店、2階がレストランとなっていて、シシカバブやナンを食べながら街を観察できた。まだ日本ではザクロが珍しかった時代。目の前で作ってくれる新鮮なザクロジュースがおいしかった。食堂では外国人だとわかると軒下からビールをこっそり出してくれたし、何の不自由もない滞在だった。
 

そんな楽しい時間はすぐに過ぎてペシャワールに向かう。
 

イスラマバードからペシャワールまで2時間ほどのフライト。乗る予定の飛行機は整備不良のため半日ちかく遅れた。その上、機種変更。最終的にジャンボジェットに数人(たぶん私ともう一人)を乗せて飛び立った。ジャンボジェットの貸切りだ。女性が肌を見せてはいけない国で、パキスタン航空のスチュワーデスだけは被り物なしの現代女性。そしてとびっきりの美人だった。そのときの写真が残っているが、一番前列に一緒に座り、2時間ずっと話しっぱなしのキャバクラ状態だった。今となっては何を話したのか全く覚えていないが、あっという間に時が過ぎて、気がつくとペシャワールの殺伐とした風景が目に入ってきた。赤茶けた禿山だらけ。空港からホテルまでに見た街は、活気がなく、銃を背中に下げた男たちばかりで女性は殆ど見かけない。ホテルも全く味気なく、雰囲気は潰れそうな温泉旅館のようだ(当時、自分が何を考えてこの街を選んでやってきたのか、今となっては思い出せない)。夜、零下のプールサイドでウイスキーをあおってからすぐに眠りについた。
 

翌日ホテルの周りを散歩していた時のことだ。PAFと書かれた巨大なビルが目に入った。高い塀に囲まれているが、政府関連のビルだろうか?そんなことを考えながら歩いていると、急にライトバンが止まり、拳銃を向けられて、車に引き込まれた。バンコクに続き、人生2度目のホールドアップ。でも、今回はすぐに謎が解けた。PAFはパキスタン・エア・フォース(パキスタン空軍)の略で、そのビルを親しげに見ていた外国人を拘束しただけのことらしい。おやつを勧められた。チーズケーキを固めたようなもので、それほどまずくはなかった。ホンダのバイクは最高だとか、そんな会話を30分ほどして、最後は友好的に開放された。
 

たぶん、この乾いたチーズケーキが原因だったんだろう。次のカラチで高熱と激しい腹痛でダウン。救急車などない国。ホテルの大型バスを借りて、病院へ。最初は大学病院に向かったが、患者が外まであふれていたので、やむを得ず、近くの物置小屋のようなクリニックへ。いかにも怪しい老人(医者?)がいて、特に診察するでもなく、紙切れに、なにやら薬の名前を書き、隣の店で薬と注射器を買ってこい、と言う。取りあえず指示に従うが、実際、注射される前に、注射針が消毒されているか心配になり、逃げた。そして1989年の大晦日から5日間はアラビア海を望むカラチで寝込んだ。高熱と腹痛で憔悴しながらも、毎日、夕方は海岸に座ってアラビア海に沈む真っ赤な夕日を眺めて過ごした。
 

結局、モヘンジョ・ダロ行きの列車には乗れなかった。でも、もし、あの乾いたチーズケーキを食べていなかったら列車事故に巻き込まれていたかもしれない。モヘンジョ・ダロからカラチへ戻る列車は一日2本なので50%の確率で。



 

You don't have to dote on me. You have a little dignity. You are the butt of a joke.
”the butt of a joke ”=”いい笑もんだ”