
本日のTシャツは、10月9日の日付が入った「カレンダー・シリーズ」。
残念ながらその日付は、フレッド・ルボー氏の「命日」として刻まれたものだ。

フレッド・ルボー氏は、94年10月9日に脳腫瘍で永眠される前年まで20年間ニューヨーク・ロード・ランナーズ・クラブの会長を務めてこられた方。
ランニングクラブの会長、だけなら世界に多くの会長さんがいらっしゃるのだろうとは思うが、ルボー氏は多くのランナーに特別なランニングを楽しませてくださった特別な会長さん。
その特別なランニングとは、ニューヨークシティ・マラソン。
NYCマラソンの第1回大会は1970年。55人のランナーがセントラルパークの周りを周回して42.195kmを走った。ルボー氏もその一人。
周回コースでなく、もっと楽しくニューヨークを走れないか?ルボー氏はその後、NYCマラソンを改善し続けていく。
現在ではNYCマラソンは2万人以上が参加(スタート地点に橋があり、「その橋がランナー全員が同時に走っていても耐えられる数」という事で今以上にランナー数を増やすことはできないのだそうだ)走りたくても抽選で落とされるランナー数が同数ほど。
それだけのランナーが集まるのは、このマラソンの運営がすばらしく、走るのが楽しいからだ。
まず、コースはNYの5区全てを網羅するコース設定がすばらしい。
スタッテン・アイランドを出発して、セントラルパークでゴールするまでに、NYのさまざまな姿を走りながら垣間見ることができる。
圧巻は、マンハッタンに入るブルックリン橋。
長い橋の上だけは応援の人たちが入れない。ランナーだけが黙々と走る。やがて目に飛び込んでくるのがマンハッタンのビル群。マンハッタンだ!という圧倒的な景色に「ここまで来た」という思いがなんとなく胸を熱くする。そのビル群がだんだん近づいて大きくなっていき、橋を渡りきってマンハッタンの地を踏んだ瞬間、ものすごい数の人々の声援がウォーと耳に飛び込んでくる。
沿道の人々はランナーのシャツにプリントされたものを見て、個人を名指しで応援してくれる。私は毎回「JAPAN」とプリントされたシャツを着て走ったが、「JAPAN!」「GO!JAPAN!」と自分を応援してくれているのがはっきりわかるのだ。これはものすごく嬉しい。
大会のすばらしさを語ると長くなるので、まだまだ他にもたくさん持っているNYCマラソン関連Tシャツ掲載時に続きを。
ルボー氏がNYCマラソンを改善していった逸話の一つで、ランナーとして参加しても目には見えないが納得だったのが、「NYギャングも説得」という話。
ルボー氏は、マラソンの日は、マンハッタンをあげてランナーを歓迎しようと動き回る。NYの公共バス・地下鉄は大会当日ランナーはゼッケンを見せれば無料。街のレストランなどもランナーが好む特別メニューを出すなど街中がランナーたちを歓迎する中、トラブルが起ってはだいなし。という事でルボー氏は、街のギャングのボスたちにも、「マラソン期間はランナー達に手を出さない」という約束をとり付ける。
全米、世界各国からランナーが集まるのだが、確かにマラソン期間のマンハッタンはどこかのどかな雰囲気がただよっているような気がする。
スポンサーを付ける、公共の機関協力を呼びかける、市民の協力を呼びかける・・・だけではなく、裏でこういうところまで根回しされているというのは、言われて見てなるほどなと感嘆モノだった。
上手く書けないが、42.195kmをただ走るのではなく、走ることの楽しみ喜びが一足一足実感できるすばらしい大会を築いてくださったのが、フレッド・ルボー氏なのである。
本日のTシャツは、94年10月9日にルボー氏が亡くなられた直後の11月6日のNYCマラソンのロゴが胸に入り、背中に「このRUNをフレッドに捧げる」と書かれた「フレッド・ルボー追悼」Tシャツ。
ルボー氏が作り上げたNYCマラソンは、昨年東京マラソンが初開催される前にも、石原都知事をはじめ関係者が大会のお手本として視察に訪れられたりもした。
ルボー氏が作って残されたNYCマラソンの大会のすばらしさが、他の大会の見本となり世界に広がって受け継がれていけば嬉しい。
NYCマラソンを走り、走りながら感動で胸がいっぱいになった一ランナーとして、フレッド・ルボー氏にありがとうと言いたい。

↑91年3月ロサンゼルス・マラソンでのルボー氏と。