私が台湾に興味を持ったきっかけは日本語世代である。
外国人で日常的に日本語を使う人がいるのかということが不思議だった。
縁あって日本李登輝友の会に入り、2006年2月の天燈祭りツアーの時に南天斉下宮を訪問する機会があったが、その時のツアーバスの隣の席にいたのが、のちに台湾人生という映画にも登場する宋定國さんだった。
宋さんは1925年生まれ、バスの中で恩師の小松原先生のお話をしていただいた。
実は李登輝元総統の講演よりも個人的には宋定國さんのお話のほうが感動が大きかった。
台湾に行って一番感銘をうけ、印象に強く残っているのはどういう事か、と聞かれたらまずこれを挙げる。
外国出張をしたビジネスマンの多くは、夜のクラブでどんちゃん騒ぎをしたり、或いは日本ではとても味わえないような珍品をグルメ三昧をしたり、更にはパーティーで著名人と話をしてツーショットしただの、金儲け勉強会に参加したとか、VIP待遇でゴルフをしたとかという事を言う人が多いが、たとえ台湾でそうした事に出くわしたとしても宋定國さんのお話を一番に挙げる。私は変わり者だろうか・・・
事実宋定國さんは話を終えた後に「あなたみたいな若い方はこんなよぼよぼ爺さんの面白くない話なんて聞きたくないでしょう、ごめんなさいね」と私に言った。多分そういう事を直接か間接かは別として日本人の若い世代に言われたことがあるのかもしれないと思った。それが事実としたら日本人も本当に心が貧しくなったものだと残念に思ったが、私が職場で台湾の思い出話として宋定國さんの話をしたら「つまんねぇな、ネエちゃんを口説いた話なんかないのかよ」と先輩たちから言われそうなのでさもありなん。
帰国後に素晴らしいお話のお礼の手紙を書いたら、小松原先生との思い出をつづったかなりの長文のお手紙をいただいた。靖国会のブログの内容とほぼ同一だった。
そのお手紙は私が千葉県支部を辞める時に千葉県支部事務局に託けた。本当は持っておきたかったし、さらには宋さんとはもう数年音信不通です。亡くなったという知らせはないのでまだご健在であると思われるが、数年前にある人から聞いたお話ではかなり弱ってきているとのことだった。
確かに今年91歳、日本語世代が高齢化していくのは自然の理。
戦後の国民党教育を受けた世代と日本語世代とは価値観が違い、同じ民族でも言語が違うとこんなに違うのかと思うぐらい。
多くの戦後台湾人の親日は日本食や日本のテレビドラマやタレントが好きというところからきていて日本は故郷だと言っている日本語世代とは根本的に違う。だから台湾人は寿司や日本のアイドルやドラマが大好きと言いながら尖閣諸島は台湾のものというデタラメを言ったりするのもいる。
やがて台湾から日本語や日本への思いが消えていくのは本当に忍びないですが、私ができることはこうした話を下の世代に語り継いでいくことではいでしょうか。
かなり長文ですが、お読みいただけば幸いと存じます。
これは涙無しでは読めないですよ。
「台湾で今も敬愛されている日本人教師」
成田空港から墓苑へ直行
平成16年11月11日、秋の深まる成田の東京国際空港に、台湾から一人の老人が降り立った。宋定国さん八十歳、台湾高座会台北区会の会長である。宋さんはすぐ、電車を乗り継ぎ、鎌ヶ谷市初富にある初富霊園に向かった。そこには、敬愛してやまない社子公学校(日本の小学校)時代の恩師、小松原雄二郎先生が眠っている。墓前に額ずくと宋さんは、いつもながら先生への感謝の言葉と、自分の近況を報告した。
成田空港から墓苑へ直行
平成16年11月11日、秋の深まる成田の東京国際空港に、台湾から一人の老人が降り立った。宋定国さん八十歳、台湾高座会台北区会の会長である。宋さんはすぐ、電車を乗り継ぎ、鎌ヶ谷市初富にある初富霊園に向かった。そこには、敬愛してやまない社子公学校(日本の小学校)時代の恩師、小松原雄二郎先生が眠っている。墓前に額ずくと宋さんは、いつもながら先生への感謝の言葉と、自分の近況を報告した。
宋定国さんは遠い台湾から、毎年この墓参りのために、わざわざ日本へやってくる。台湾で戒厳令が解除された十数年前から、宋さんはこの墓参りを欠かしたことがない。そして自分の子や孫には、「私の人生にとって、小松原先生は神や仏以上の存在だ」と常に話している。
私が初めて台湾を訪れたとき、宋さんは、「日台間で行われるスポーツなどを観戦していて、いつの間にか日本を応援している自分に気づき、びっくりすることがあります。私はときどき、自分が台湾人なのか、日本人なのか分からなくなるのです」と語ってくれた。「ずいぶん正直な人だ」という印象を持ったが、日本の敗戦で突然国籍が変わった20歳までは日本人だったのだから、ある意味では当然かも知れない。
司馬遼太郎はその著「台湾紀行」で、「老台北」という人をたいへん人間性豊かに描いている。まだ「老台北」こと蔡焜燦さんを存じあげなかった私は、「老台北」はおそらく宋定国さんのような人だと勝手に想像して、宋さんのことを「老台北」と呼んでいた。
李登輝さんが台湾総統選挙に立候補したとき、中国政府はその当選を阻止しようと、台湾の北部と南部の沖合へミサイルを撃ち込んだ。いわゆる武嚇である。その夜私たち二人は、台北の小さなクラブにいたが、宋定国さんは、「奴らが攻めて来たら、私も老骨ながらライフルを持って戦います」と、決意を語ってくれた。そして、すっくと立ち上がり、直立不動で歌い出したのが、甲斐の民謡「武田節」だった。特に二番を力強く歌った。
祖霊ましますこの山河 敵に踏ませてなるものか
人は石垣 人は城 情けは味方 仇は敵 仇は敵
この宋定国さんが、手を震わせながら、時には涙しながら語るその人生は、波乱万丈で、とつとつとした調子ではあるが実に面白い。
「先生、授業料が払えません」
「私は、大正十四年六月二十八日、台湾の台北州七星郡志林街社子の貧しい農家に生まれました。ようやく歩けるようになった頃、母菊が亡くなりました。唯一頼れるのは祖母でしたが、その祖母も多くの孫を抱えていました。公学校四年の終るころ、今度は父聡明が盲腸手術の失敗で、他界してしまったのです。
兄がいましたが、その兄が私に学校を中退して家の手助けをしろと言うのです。私はまだまだ勉強したかったので、退学しろと言われたときは、目の前が真っ暗になりました。私はこの事情を赴任してきたばかりの受持ちの先生に訴えました。先生は千葉県から来られたばかりの、小松原雄二郎という方でした。家庭には奥さんと三人の子供がいました。
事情を聞いて小松原先生は、「せめて公学校だけは、どんなに苦しくても卒業しなさい」と諭してくれました。「でも先生、授業料が払えないのです」。当時の台湾は、まだ義務教育でなかったので、授業料が必要でした。
すると先生は、「心配するな、先生が出してあげるから」と言ってくれました。
そして私の家庭を訪問し、なんとか兄を説得してくれたのです。兄は、二度と家業を手伝えと言い出しませんでした。それからは、授業料だけでなく学用品や配給される衣類の代金、その他、諸々の配慮をしていただきました。
私は発奮し、懸命に勉強して、公学校をトップで卒業しました。更に進学したかったのですが、とてもそんなことは言い出せません。進学など夢のまた夢でした。何しろ野良仕事をしないと、ご飯も食べさせてもらえないのです。」
働きながら通った夜間中学
「せめて工業方面で働いてみたいと考えた私は、叔父に頼んでテント屋の丁稚小僧になりました。そして、朝早くから夜遅くまで、掃除、荷造り、車引き、ズックの裁断など、寝る間も惜しんで働きました。
テント屋で働いているとき、初めて夜間中学のあるのを知りました。それは官庁街で働く進学希望の少年や、貧困でも向学心のある青少年のために、第四代総督の民生長官であった後藤新平の創立した台湾で唯一の夜間中学で、成淵校と呼ばれていました。
その成淵校(現在の成淵高等中学)は、厳しい環境下で勉学する生徒ばかりなので、卒業生は入学時の三分の一になってしまうと言われていました。公学校を卒業していれば、誰でも希望通り予科一年へ入学できたのですが、私はあえて予科二年に挑戦し、幸いにも入学することができました。
それからは、仕事の疲れや空腹と闘いながら、寸暇を惜しんで勉学に励みましたが、本科一年の終わるころ、とうとう身体を壊してしまい、蓄えも底をついて、途方に暮れていました。
すると級友が、「宋君、小松原先生のところへ遊びに行きなさい」と盛んに勧めてくれたのです。「ルンペンをしているので、面目ない」と答えると、「先生は何もかもご存知だから、訪ねていって相談した方がいい」と言うのです。
友人があまりにも熱心に勧めるので、思い切って志林にある先生のお宅を訪ねますと、たしかに先生は何もかもご存知の様子でした。そして、「宋君よ、挫けちゃだめだよ、いま挫けたらお仕舞いだ。台湾食品工業の増田四郎専務とは昵懇だから、勉強と両立できる適当な仕事をお願いしてやる」とのことです。
社子公学校を卒業してから四年も経つのに、まだ教え子のことを心配してくれる先生に、私はただ感謝するのみでした。お宅から退出するとき、先生は私を垣根の外まで追いかけてきて、おそらく奥様には内緒だったでしょう。当時としては大金の、五円札をポケットにねじ込んでくれました。
そして、「宋君、近い中に会社から便りがあると思うが、勉強だけはどんなことがあっても続けなさい」と言われました。お礼の言葉も満足に言えませんでしたが、この温情には必ず応えなければならないと、固く誓ったものです。
程なくして会社から通知がありました。周囲はみな心温かい人たちばかりで、会社に住込みも許され、学校へ通うのは非常に楽になりました。私は先生へ感謝しながら、小松原雄二郎の名を汚さぬよう懸命に働きました。
ある晩のこと、台湾を猛烈な暴風が襲いました。そのとき、基隆河の川岸に近い二千坪もある工場に居たのは私だけでした。目を覚ますと、風雨は容赦なく襲いかかり、水はすでに会社の玄関近くまで押し寄せています。本土から到着したばかりの新しい樽材の流出は、一応食い止めましたが、岸辺に並べてあった大小の樽は流され、工場内の何百もの真新しい樽も流される寸前でした。
何とかそれを食い止めなければならないと、私は危険を顧みず、風雨ばかりでなく、毒蛇とも戦いながら、あちらこちら必死に泳ぎ回り、損害を最低限度に止めることが出来ました。
天候が回復してから、社長や増田専務からお褒めの言葉をいただきましたが、特にうれしかったのは、小松原先生まで工場へ駆けつけ、共に喜んでくださったことです。」
向学心に燃え日本本土へ
太平洋戦争の緒戦を勝利で飾った日本も、昭和18年に入ると各地で敗退を重ねるようになった。とくに航空戦力の消耗は激しく、その増強が急を要するものとなり、それを担う優秀な労働力の確保が課題となったが、本土には、それを供給する余裕はなかった。
一方、当時の台湾には、向学心に燃える優秀な青少年がたくさんいた。海軍はそれに目をつけ、飛行機を製造する職場で働きながら勉強すれば、旧制中学校の卒業資格を与え、将来は技手や技師になる道も約束すると誘った。
台湾の少年たちが多数これに応募し、選抜試験を突破した8400名が、勇躍日本内地へ向かった。台湾少年工と呼ばれた人たちである。その中には、少年たちのリーダー役として数百名の中学校卒業者も含まれていた。彼らには、旧制工業専門学校の卒業資格を与えるという条件が約束されていた。夜間中学を卒業した宋さんも、昭和19年3月18日、その中の一人として海を渡った。
向かった高座海軍工廠は、ゼロ戦の後継機「雷電」の製造を使命としていた。雷電は、高高度迎撃用に研究開発された戦闘機で、高度一万メートルへ6分で到達できる性能を誇っていたが、はるばる台湾から多くの少年を迎えながら、その生産体制はまだ全く整っていなかった。
「昭和19年4月2日、高座海軍工廠へ着くと、台湾食品工業で事務関係に従事していたためか、事務職に配属され、多くの同僚から羨ましがられました。辛いタガネとハンマーの実習をやらないですんだからです。でも配属された工場はまだ出来ておらず、仕事もなくて、時間を持て余していました。
ある日、整備工場の責任者である西野信次少尉が事務所へ来て、何事か組長と話し合ってから、「三浦定国君(当時の私の改姓名)、整備に来ないか」と誘ってくれました。日本へ来る前に、航空機整備員の宣伝映画を見ていた私は、真っ白い作業服に白い帽子をかぶった整備員の、キビキビした作業態度を思い出し、喜んで承諾しました。
それから四ヶ月、相模航空隊第百十期生として、徹底的な航空機の整備訓練を受けました。ようやく一機また一機と第四機まで整備を進めていた頃、隣の職場で整備した雷電が、テスト飛行中に空中分解し、肝をつぶしたこともあります。」
昭和19年、サイパン島の日本軍守備隊が玉砕すると、そこはB29の発進基地となり、日本本土全体が爆撃可能になった。防空第一線部隊からは、上昇性能に優れた戦闘機「雷電」への期待がますます高まっていた。
しかし、雷電の主力生産工場であった三菱航空機名古屋工場は、すでに空襲で大損害を受け、高座海軍工廠の整備も、資材不足など種々の悪条件が重なって思うにまかせず、雷電生産の主力は三重県にあった三菱の鈴鹿工場へ移っていた。宋さんは実地訓練のため、その近くの鈴鹿航空隊へ派遣された。
期待されて「紫電改」整備員に
昭和20年2月、宋さんは鈴鹿航空隊から高座海軍工廠へ帰任したが、帰任早々今度は横須賀にあった海軍航空技術廠発動機部へ配属され、新鋭戦闘機「紫電改」のエンジン整備に専念するよう命じられた。僅か一年の間に宋定国さんに下された命令は、目まぐるしく変った。戦局の激変も理由の一つだが、宋さんの並外れた技術と責任感が注目されていたようである。
すでに日本本土の制空権は完全にアメリカ軍に奪われ、B29に加え空母艦載機グラマンF6Fによる本土攻撃が増加していたので、防空戦の主体は、上昇能力一本槍の雷電から、空戦性能に優れた紫電改へと必然的に移っていた。派遣された「空技廠」の重点も、紫電改の製造と特攻兵器「桜花」の研究開発へとシフトしていた。宋さんは、関係者を集めて行われた工廠長の演説を、今も鮮烈に憶えている。
「海軍少将だった多田力三工廠長は、沖縄で苦戦している陸海軍など切迫している戦局を説明されたあと、我々が造る「紫電改」に、日本の興廃がかかっていると訴えられました。多田少将は、ドイツ軍の猛攻から英国を救ったのは、スピットファイヤーという名機だが、いま苦闘している日本を救うのは、この「紫電改」以外にない。全力を振るって紫電改の製造に当たってくれと、涙ながらに訴えられたのです。この時ほど身の引き締まる思いをしたことがありません。」
しかし、武者震いをして紫電改の整備に取組もうとしていた宋定国さんへ、今度は予想もしなかった命令が下った。「昭和二十年七月一日、甲府第六十三連隊へ入営せよ」との召集令状であった。
高座海軍工廠志願の人間は、航空機製造に従事する軍属だから兵役は免除されると聞いていたし、国運を賭けた紫電改の話も聞いたばかりである。普通なら、とても納得いくものではないが、日本本土へ赴くときの、小松原先生の言葉が脳裏をよぎった。「辛いことがあるかも知れないが、お国の為だ。がんばって来い」との言葉だった。宋定国さんは、いつもその言葉を胸に刻んで行動していた。当時の宋さんに、不満や愚痴、サボりなどは、全く無縁だった。
B29による甲府大空襲
昭和20年7月1日、甲府第63連隊に入隊した宋定国さんを待っていたのは、とてつもない試練であった。入営早々、甲府の大空襲に遭遇したのである。それは昭和20年7月6日未明のことで、入営から一週間目であった。
「7月6日深夜、駿河湾を北上してきたB29の大編隊は、三つに分れ、その一つが甲府方面へ向かったとの情報でした。当時甲府は富士山を目がけてサイパンからやって来る敵の飛行ルートに近く、敵機の通過はよく経験していましたが、その夜は甲府そのものが目標でした。いつかは来ると覚悟はしていましたが、実際に狙われた緊張感はまったく別ものです。
その夜、私は甲府市内の海工社という軍需工場へ、衛兵として派遣されていました。一発の照明弾が、灯火管制で真っ暗な甲府市の北部へ落とされると、一瞬にして街は真昼のようになりました。敵機は西南方からぞくぞくと侵入し、甲府を一周しながら次から次へ焼夷弾を落としていくのです。
それは主に親子焼夷弾でした。まず一本が尾を引きながら落下し、それがバーンと空中で破裂すると、数十本の焼夷弾がザーとオレンジ色の尾を引きながら直径50メートル範囲にドスンドスンと落ち、パッと発火するのです。次から次へと飛来するB29が、文字通り雨あられとそれを落とすのです。
焼夷弾攻撃の圏内にいると、シュシュと今にも脳天に焼夷弾が突き刺さるような恐怖を感じます。巻き起こる旋風、生きた心地はしません。着ている服も、熱で一分も経つと焦げ出すので、絶えず水をかけなければならないのです。
B29は、逃げ惑う人々の上を、爆音を響かせ、銀色の胴体に火焔が映るほど低空を飛び回っていました。敵機の爆音、炸裂する焼夷弾、家が焼ける激しい音、乱れ飛ぶ焼けたトタン板、絶叫する人の声、その中に母を呼ぶ幼子の声もありました。地獄絵さながらで、回想するたびに戦慄します。」
猛火から守った甲府市役所のトラック
火を食い止めたり、傷ついた市民や戦友を救助したりしていた宋定国さんは、そのとき、トラックなど6台の市役所の車両に猛火が迫っているのを知った。トラックは当時貴重な戦力であった。無事に安全な場所へ避難させなければならないが、周囲に運転できる者はだれもいない。自分も自動車免許は無かったが、飛行機の整備をしていた関係で移動することぐらいはできる。
しかし、無数の焼夷弾が不気味な音を出しながら降ってくる最中、炎へ向かって突進して行くのは、ひどく勇気のいることであった。それでも決死の覚悟でその渦中へ飛び込み、何とか4台は類焼から救うことができた。
地獄絵のような空襲が終わり、朝がやってくると、甲府の街はすっかり焦土と化していた。これだけの被害を受けながら、味方はただ一機の迎撃機も飛ばすことは出来なかったし、一発の高射砲すら撃った様子がなかった。一方的に叩きのめされたようで、軍人としてなんとも情けなかった。
ただ、甲府周囲の主要道路にトラックが配置され、罹災者の輸送や食糧の配給、死体搬送などに活躍しているのを見て、少しほっとしたという。小松原雄二郎先生の言う「お国に少しご恩返しができた」思いだった。
宋定国さんの決死の活躍を、だれかが見ていたのだろう。敗戦の日の翌日、甲府第六三部隊の中村中隊長は、数ある兵士の前で宋さんの活躍を高く評価してくれた。皆の前へ一人だけ呼び出された時は、何事かと不安だったが、中村中隊長は宋さんの活躍の様子を皆に発表した後、「宋定国君、ほんとうに有難う。よく戦ってくれました。心から感謝します。とうとう日本もこういう破目になってしまい、君に報いることは何ひとつできないが、この絆をこれからも末永く保っていきましょう」と言ってくれた。
まもなく甲府第六三連隊は解散し、将兵は全員それぞれの郷里へと帰って行った。わずか二ヶ月だったが、宋さんには、全く命懸けの軍隊生活であった。
最後に宋定国さんは忘れられない光景を見た。それは、敗残の兵舎を去るときの日本人の姿であった。多くの将兵に悔しさがあったはずである。鬱憤ばらしにガラスの一枚も割って行くのが人情というものかもしれない。しかし、兵舎はきちんと整理整頓され、掃き清められてチリ一つ落ちていなかった。
それを見て、宋定国さんは、「この国は必ず再興する」と思った。台湾の戒厳令が解除されてから、何十年ぶりに訪日した宋さんは、命懸けで戦った思い出の地甲府を訪れた。予感は的中し、見事に復興した甲府市が眼前に開けていた。熱いものが、止めど無く流れ落ちた。
変わり果てた故郷台湾
連隊の解散によって、宋さんは高座海軍工廠の寄宿舎に帰った。敗戦を機に全国に派遣されていた台湾少年工の仲間も、すべて帰ってきた。頼みの海軍は解体され、今は異郷と化した地に面倒を見てくれる者はいない。前途は不安に満ちていた。一部の少年は自暴自棄になり、すでに新聞種になってもいた。
しかし、そのことに問題意識を持った宋さんなど中学校卒業者は、台湾省民自治会という自治組織を結成し、自らの力で神奈川県や外務省と食糧の調達から帰還船の準備まで交渉することにした。宋さんも甲府63連隊の実例をあげ、「飛ぶ鳥は跡を濁さず」と規律の回復を説いて回った。虚脱と不安を抱えた8000余名の少年を、混乱の淵から見事に結束させた、20歳を最年長とする当時のリーダーの奮闘ぶりは、いまも語り草である。
宋さんの属する台湾省民自治会台北州大隊を乗せた病院船氷川丸は、昭和21年1月29日、浦賀港から出航した。不幸にも船中で天然痘が発生したため、九州の唐津港で一週間停泊して状況を見、2月10日に基隆に着いたが、検疫のため更に9日間港内へ入ることが許されなかった。その船内には、後に台湾建国の父と仰がれる李登輝さんも乗船していた。司馬遼太郎の台湾紀行には、このとき台湾少年工が船内で暴れたように書かれているが、事実は全く異なるという。
ようやく上陸許可が下りたのは、2月19日であった。船が基隆港に入り、岸壁に近づいた瞬間、だれもが呆然となった。基隆港で見た三年ぶりの故郷は、想像もできない姿に変わっていたのである。銃の両端に破れ傘と鍋を吊るした、みすぼらしい身なりの中国兵がいた。規律は最低だった。
敗戦と同時に、祖国と信じていた日本に放り出された少年たちは、今まで敵としてきた「中華民国」に、将来への夢を託していた。しかし基隆港の警備をしているだらしない身なりの中国兵は、その夢を一瞬のうちに打ち砕いた。
宋さんは、戦後中国人になったと得意になっていた仲間の一人をつかまえ、「おいX,これがお前たちの何時も威張っている中華民国の兵隊だ、よく見ておけよ」と言ってやった。彼らは立ち竦んでいたが、しばらくして、「あれは兵隊ではない、きっと何かの雑役だ」と絞り出すように答えた。
当時の中華民国の軍隊は、自給自足が建て前なので、各人が鍋釜を担いでいた。かっぱらいが始まったのは、その日の糧秣を調達するためであった。商店から代金を払わずに品物を持ち去るなど、当たり前だった。
当時の中国軍の事情については、朝日新聞の論説委員だった神田正雄氏が、戦前に出版された「謎の隣邦」(昭和16年、○○書店刊)に詳しく書かれている。それを読むと、台湾人が戦後に直面した驚きと困惑の謎が解ける。
「支那の軍隊は、鉄砲を担いでいるから兵隊であるが、実は無職の無頼漢である。勝てば略奪して進むし、負けるとまた略奪して逃げる。彼らにとって勝敗はものの数ではない。広東の軍官学校で養成された士官、下士官は近代支那においては、精鋭無比と称せられている。事実、長江沿岸に進出するまでの勇敢な行動は、日本軍に舌を巻かせたが、それら将兵は多く戦死してしまった。
これを指揮する司令官も、てこずっている。旧式な軍隊慰撫の方式で彼らを激励する以外に方法はない。すなわち「諸君はいま艱難と戦い困苦を忍ばねばならない。しかし南京、上海を占領する暁には、必ずその労苦は報いられるだろう」と暗に略奪を仄めかし、物欲の満足を示して不平を和らげるのである。よい鉄は釘にしない。良い人は兵にならない。
しからば兵はどのように募るのか。「招兵」と書いた紙の旗を立てて、盛り場を一巡する。続々と後ろからついてくる無職者、無頼漢、乞食、数だけは間に合わせる。間に合わせの服を着せれば、わら人形も兵隊になる。
これらの無職者、宿無しは、平素から野宿、寒暑飢餓に耐える訓練が出来ている。射撃はその場で現金を渡して上達をはかる。文明国流の軍隊の精神的な訓練など不要である。
乞食をしようか、それとも兵隊になろうか。ままよと、銃を取った弱いのと、土匪で居ようか兵隊になろうかといって、間一髪のところで軍隊に入った強か者との集まりである。支那の兵隊ほどおそろしく危険なものはない。」
教師として再出発
帰郷すると宋さんは、まず小松原先生を訪ねた。日本への帰還船を待っていた先生は、宋さんの訪問をたいへん喜んでくれたが、いつか別れの挨拶も十分に出来ぬ間に、あわただしく帰国されてしまった。困窮していた先生に、何もしてあげられなかったことと、228事件が起きたり、白色テロの嵐が吹き荒れたりして、音信が途絶えてしまったことを、宋さんは長い間悔いていた。
宋さんは、いつまでもぶらぶらしているわけにもいかず、仕事探しをはじめた。しかし戦後の台湾は何もかもが変わってしまい、なかなか適当な仕事はなかった。縁あって、学校の教師をすることになった。しかし状況が大きく変わった点では、学校も例外でなかった。
戦前は台北高校の教師で、戦後はアメリカ大使館員だったジョージ、カーの著した「裏切られた台湾」によると、大陸からやってきた中国人は、先を争って、日本人が占めていた職につき、目先の利く連中が、うまみのある仕事を独占したという。給与の額より賄賂のチャンスがどのくらいあるかが、彼らの物差しであった。教員などは彼らの価値観からすると、最低の仕事だった。そのため、教員には最も能力的にふさわしくない、他の仕事にあぶれた連中が就いた。まともに字が書けない者、計算さえ出来ない者もいた。
教師になった宋さんにも、いろいろ悩みが生まれた。まず北京語の勉強から始めなければならなかった。日本の統治時代を、肯定的に評価するのもご法度であった。大陸から逃げてきた国民党政府にとって、台湾人の日本への回帰は、最も警戒すべきことであった。中国人の教師仲間から、「宋定国は親日的だ」と何度も批判された。つい本音が出てしまうからであった。
日本の近現代史を正しく理解する教材として
台湾の戦後教育は、中国一辺倒の教育であった。そこに台湾や台湾人の立場はなかった。日本が登場するのは、反日教育の材料としてだけであった。これは今日の中国大陸における教育にも共通している。
宋さんは矛盾を感じながら、自分を今日あらしめてくれた小松原先生の教えを忘れず、常に生徒の目線に立って、人間を大切にする教育を心がけた。
教え子からは、多くの人材が輩出している。立法委員(国会議員)として活躍している陳建銘氏もその一人で、「全くすばらしい先生だった。人間のあるべき姿を、常におだやかに、身をもって実践されていた」という。
人の良さが裏目に出て、宋さんは教職を最後まで貫くことは出来なかった。他人の保証人となって多額の負債を背負い込み、教員を辞めなければならなかったからである。教職を離れた宋さんは、退職金で負債を返済すると、縁あってあるホテルのマネージャーになった。
だが人生は、何かの縁でつながっているのだろう。ある日、そのホテルに千葉県鎌ヶ谷市の人が来た。宋さんは、小松原先生の実家が鎌ヶ谷だったことを思い出した。そしてその客の親切で、小松原先生と翌日には連絡がついたのである。
小躍りする気持ちだった。昭和51年のことで、台湾の社会もすでに安定していた。宋さんは、同級生と相談し小松原先生を台湾へ呼ぶことにした。台北郊外の北投温泉「華南大飯店」に、社子公学校の同期生75名が集まり、小松原雄二郎先生歓迎謝恩会が盛大に開催された。だれもが笑顔で先生を迎え、眼を潤ませて「仰げば尊とし」を斉唱した。同期生は金を出し合い、先生に洋服から靴、時計まで、全てを新調して贈った。先生は非常に喜ばれ、「教師冥利に尽きる。私はもう死んでも思い残すことはない」と言って帰国された。
翌年宋さんは、お家族から「先生が重病」との連絡を受けた。直ちに先生を飯田橋の病院に見舞い、六日間必死に看病したが、祈りは通じなかった。「宋君、ありがとう、もういいよ」という言葉が最後だった。悲しみがこみ上げてきた。
敗戦の年、台湾の就学率は92,5%とだったが、イギリスとオランダの支配していたインドとインドネシアでは、わずか数%に過ぎなかった。台湾のこの高い就学率こそ、半世紀にわたる多くの日本人教師の献身的努力の偉大な金字塔である。(そこには、多くの台湾人教師の努力も当然含まれている。むしろ日本統治の後半期には、優秀な教師は圧倒的に台湾人だったという。)
宋定国さんのケースは、それを具体的に裏づけるものである。日本統治時代の一日本人教師の指導を徳とし、今も師と慕う台湾人の美しい報恩の物語である。台湾には、この種の話が実に多い。
そうした意味で台湾は、私たちの父祖の時代の日本を、曇りない眼で見ることのできる、最高の教室であると私は考えている。宋定国さんの海を越えた墓参りが、日台をつなぐ懸け橋として、また日本人が自国の近現代史を正しく理解する教材として、これからも可能な限り続けられることを、心から祈りたい。