過去、暹羅(シャム)のアユタヤと同じように、ビルマのアラカン王国(現・ラカイン州)にキリシタン侍が存在したとの記事をみた記憶がよみがえった。最近種々調べていると沖田英明著「ミャウーのキリシタン侍」東洋出版なる著書が存在していることが判明し、過日読了した。

そのアラカン王国には、低火度釉陶磁の白釉藍彩陶が存在する。日本で通称染付であるが、アラカンのそれは鉛を含む低火度釉であることが異なる。

(ミャウー考古博物館展示品とカムラテンコレクションの壷は瓜二つである)

 

ミャウーとはアラカン王国の首都で、そこには『Ue dono(上殿)』と呼ばれた日本人キリシタン武士団の首領のもとに約40人のキリシタン侍が、アラカン国王の護衛の任にあたっていたと云う。

その彼らは、王都で先の白釉藍彩陶を見ていたであろうと思うと、その陶磁器類が日本と無縁のモノではないと思われ、記事にしてみた。

沖田氏の著述によると参考文献が種々記されているが、Ue donoなどキリシタン侍の動向は、Sebastian Manrique(1590-1696年)なる宣教師による著述にあるようだ、マンリケはアウグスティノ会の宣教師で1630年から5年間ミャウーに滞在しており、その間の見聞を記録している。

キリシタン侍の頭領であるUe donoは家康の時代に迫害されて日本を逃れたようである。沖田氏によればミン・カマウン王(在位・1612-1622年)の時代に、暹羅からキリシタン侍が渡来したと・・・伝えられているという。

更にマンリケ宣教師の著述によると、何人かの日本人の侍が1623年にミャウーにやって来て、王族の身辺を警護する近衛兵となったと記し、マンリケは日本人たちと協力し教会堂を建立したこと、それ以外にも幾人かの日本人が存在していたようで、チリッダンマ王(在位・1622-1638年)の戴冠式に幾人かの日本人が参列していたとする。アユタヤの日本人街と規模は劣るものの、アラカン王国の都であるミャウーにも日本人が定住していたのである。

これらの事績に先立つ15世紀半ば、ミャウーに建都したのはミンソーモン王(在位・1430-1434年)である。建都の熱気と共に開窯されたであろう。津田武徳氏の現地調査によれば、3基の窯跡を現認したとのことである。

そこからは低火度釉の陶片が出土し、ミャウー考古博物館には錫白釉藍彩陶壷が展示され、そこには敢木丁(カムラテン)コレクションの同壷と極似していると報告されている。してみれば17世紀初めのUe dono等のキリシタン侍も、これらの陶磁を目にしていたであろうと思っている。

(ランプーン国立博物館展示 ミャンマー錫鉛釉緑彩陶)

 

このアラカン錫白釉藍彩陶の低火度釉技法が、ミャンマー錫鉛釉緑彩陶に伝播したのは確実であろうと思われ、北タイ・カロンの緑釉(15世紀中頃)にも影響を与えたかとも思ったりする。それについては別途検討してみたい。

                                              <了>