以下縷々綴るにあたり、記紀はデタラメという立場にはたたない。何らかの史実の反映と考えている。
記紀は、二二ギノミコトが、竺紫の日向の高千穂の久士布流多気(くしふるたけ)に天降ったと記す。記紀によれば更に二二ギノミコトの三代後の神武天皇が日向から東征して、大和朝廷をたてたとする。
元産能大教授。安本美典氏の上古天皇在位10年説によれば、それは西暦280-290年頃のことであろうとされている。この頃から畿内で銅鐸が消えてゆき、前方後円墳がおこり、九州の弥生文化につながる剣・鏡・玉などの副葬品が埋納され始める。神武東征により墓制が変化したであろうか。
このように弥生時代末期~古墳時代初期にかけて、大和王権を興す勢力が旧日向国の地に存在したであろう。女狭穂塚古墳や男狭穂塚古墳は、目立つ存在ではあるが、ニニギノミコトや神武天皇の時代と開きがある。
県立西都原考古博物館に巨大な玉壁が展示されておりビックリした。玉壁と云えば「和氏の壁(かしのへき)」である。春秋戦国時代に趙の恵文王に渡った和氏の壁を秦の昭襄王(しょうじょうおう)が自領の十五城と引き換えに入手しようと持ち掛けた。秦を信用できない恵文王は藺相如を秦に送り、約束を守る気のなかった昭襄王から壁を無事持ち帰る「完璧」の故事で名高い。
博物館展示の玉壁は残念ながらコピーであったが、原品(国宝)は宮崎県串間市の王の山古墳から出土した。その壁は直径33.3cmの軟玉製で、中央の丸穴の周囲に獣文、渦巻文、獣文の三重の文様帯を刻んでいる。
日経新聞平成24年7月4日記事によれば、岡村秀典京大教授は以下のように語られている。“漢王朝工房で前2世紀につくられた。広州・南越漢墓出土の壁と文様パターンが似ている・・・という。”交易でこのような王侯クラスの宝物を入手するのは困難、越と呼ばれる地域から戦乱を逃れて亡命した王侯の所有物であったか“・・・と。そして、それが時代と共に重要視されなくなり、古墳時代に至り副葬されたものと考えられる”・・・と結ばれている。
それに関して同教授は、前漢武帝時代の東甌(東越)国①の繇(よう)王の子孫が、王の山古墳の被葬者の第一候補としておられるようだ。
いやそうではなく、前漢から衛氏朝鮮に下賜されたものとの説もある。来歴に興味なきにしもあらずだが、この貴重な玉壁が大首長墓でもない王の山古墳に何故埋納されたのか。これについても憶測で玉壁は何も語らない。
どのような経緯で日向の地にもたらされたのか、王の山古墳に埋納されたのは後世である。紀元前3世紀~前2世紀頃、つまり「漢委奴国王」金印とほぼ同時代に日向の地にもたらされたものと考えられる。そこには亡命を受け入れる有力な勢力があったであろう。その受入れ勢力は邇邇芸命(ににぎのみこと)の天孫降臨と神武東征伝承の下地となるべき勢力であったと考えている。
以下蛇足ながら「古事記」によると、神倭伊波礼毘古(カムヤマトイワレヒコ・神武天皇)は日向にいたとき、阿多の阿比良比売(アヒラヒメ)をめとって。多芸志美美命(タギシミミ)と岐須美美命(キスミミ)が産れた。またのちに、伊須気余理比売(イスケヨリヒメ)との間に、日子八井命(ヒコヤイ)②、神八井耳命(カムヤイミミ)、神沼河耳命(カムヌナカワミミ)の三子をもうけている。ミミのオンパレードである。
それには理由があった。大耳や耳輪をつける習俗の人々がいたのである。大隅半島の肝属郡(きもつき)大根占町から弥生時代の岩偶が出土した。頭部には両耳が外側へ突出し、その部分に全面から後部へ小穴をうがっている。おそらく耳飾りをはめた状態を表現したモノであろうと云われている。
南九州の薩摩半島の阿多は、神武東征以前の根拠地であったと思われる。耳飾りをつける習俗は南海の特徴であり、神武天皇を輩出した日向は海人族勢力も味方につけていたであろう。神武東征は日向の美々津から船出した、海人族の加担により航行が可能であったと考えられる。
蛇足が冗長になり恐縮である。古事記が記すミとミミであるが、「魏志倭人伝」にも登場する。『南至投馬國水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸』つまり「南、投馬国に至る。水行二十日なり。官は弥弥と曰ひ、副は弥弥那利と曰ふ。五万余戸ばかり。」
投馬国(とうまこく・つまこく)③をどう読むか、邪馬台国九州説では日向国都万(都万神社周辺)説が有望であるが、単なる語呂合わせと考えられなくもない。しかし古事記によれば、先に記したように日向の神名にはミ・ミミが頻出し、魏志倭人伝の官人名とシンクロしている。おまけに邪馬台国女王卑弥呼も、美称としてミをもつ。日向は神武東征の出発地にふさわしい土地柄であると云える。
注① 東甌(東越)国:越王勾践(えつおうこうせん)の後裔東甌(とうおう)王が封じられた国で、現在の浙江省温州市を河口とする甌江流域を版図とした。騶居股(すうきょこ)は東甌国の繇(よう)王だったが、漢の武帝により九江郡に移住させられ東城侯となった。後に皇太子である衛太子の巫蠱(ふこ)の乱に連座して要斬の刑に処せられた。その子孫や一族が連座の刑を逃れるため東海に船出したと考えられる。
注② 古事記は日子八井命と記すが、新撰姓氏録は彦八井耳命と記し、ミミ表記している。
注③ 投馬国:邪馬台国九州説では日向国都万(都万神社周辺)に比定している。
<了>
