【古代鴨氏物語】磐余邑と敷島 | 東風友春ブログ

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我が国最初の天皇はもちろん「神武天皇」ですが、今日この有名な尊称(漢風諡号)が用いられるのは、ずっと後の平安時代になってからとされる。

神武天皇は、日本紀によると「神日本磐余彥天皇」「彥火火出見」「狭野尊」など様々な呼び名を持つが、東征時に於いて実際にどのような名前で呼ばれていたかは不明で、日本紀は即位前であっても便宜上「天皇」の表記で統一され、それに対して古事記では「神倭伊波禮毘古命」もしくは「天神御子」と記している。

この「神倭伊波禮毘古命」や「神日本磐余彥天皇」の「磐余(いわれ)」とは、大和にあった地名のことである。

 

 

日本紀によると、神武東征時、磐余には磯城の軍勢が群集しており、この「屯集する・群れ集まる」の古語を「いはみゐ」と言ったそうで、軍兵が「いはみゐ」たことが地名の由来となったそうだ。

 

磯城八十梟帥、於彼處屯聚居之。屯聚居、此云怡波瀰萎。果與天皇大戰、遂爲皇師所滅。故名之曰磐余邑。

 

つまり「磐余」とは、神武東征を機に名付けられた新しい地名であることを意味している。

すなわち磐余彦とは、神武天皇が長髄彦との戦いの後に「磐余邑」を占領したか、もしくは「磐余の王」に推戴された事により名付けられたものではないかと考える。

おそらく、このような名前はその土地の首長といった意味合いであり、磯城兄弟宇迦斯兄弟、さらに登美毘古など神武東征に登場する他の人物名と変わらない。

 

 

磐余の所在は決して明確ではないが、「大和志料」は「城上郡河合より本郡櫻井傍近に亘り池内池尻に及ひ其以南石寸山に循へる處まてを凡稱せしもの」と記し、磐余が桜井市南西部から橿原市南東部にかけての地域であるとして、昭和十五年(一九四○)、その中間地とも言える桜井市大字吉備に「神武天皇聖蹟磐余邑顕彰碑」が建てられました。

これは「池内池尻」(桜井市大字池之内・橿原市大字東池尻町)といった地名が、履中天皇の時代に造られた「磐余池」の名残であると考え、橿原市南東部に及ぶ地域を「磐余」だとする見解によるが、磐余池の所在に関しては異論もあって立証されておらず、そもそも神武時代の磐余邑の検証に磐余池を考慮する必要があるのか疑問の余地がある。

 

 

しかしながら、桜井市大字谷(等彌神社の西北)にある「東光寺山」はかつて「磐余山」と言い、その山の下を廻るように流れる「寺川」は「いはれ川」と呼ばれ、現在もそこに「磐余橋」という名の橋が掛かっている。

また、桜井市大字谷には「石寸山口神社」とする式内論社が存在し、この神社は「大和志」によると近世「雙槻神社」と呼ばれていたそうで、一説にそこは用明天皇の「磐余池辺双槻宮趾」だと考えられている。

 

 

また、等彌神社には「磐余之松」の伝説が残るし、さらに等彌神社の南の地点(河西遺跡)において縄文晩期の土器が出土しており、神武東征時において既に人の居住があったと想像できる。

以上の観点から、磐余邑は少なくとも寺川両岸の谷間(大字桜井や大字谷など桜井市南西部)にあったと見るのが妥当ではないだろうか。

 

 

さて、この磐余邑推定地から北の地域は磯城兄弟の根拠地でした。

そもそも磐余邑に磯城の軍勢が群集していたということは、磐余邑も彼らの勢力圏だったと考えられます。

 

復有兄磯城軍、布滿於磐余邑。磯、此云志。賊虜所據、皆是要害之地、故道路絶塞、無處可通。

 

ちなみに日本紀には「倭国の磯城邑に磯城八十梟帥有り」ともあり、磯城兄弟の根拠地を「磯城邑」と記しています。

現在、桜井市大字慈恩寺の初瀬川の川辺に「欽明天皇磯城嶋金刺宮址」とされる土地があり、その一画に「磯城邑伝承地」の石碑が建っている。

欽明天皇の磯城嶋金刺宮は、「大和志料」に「彼處の人云 勧圓房、シキ島とて長谷へ参れば山埼に小堂あり。今は武家入時くつす。惣してシキ。島とて一郷の處也。今はあれてなし。然れども慈恩寺の管領なる故に三輪の宮本に神役をするなり。金刺宮は河の向に竹原あり其内に小社あり。此欽明天皇内裏の跡也」とあり、ここに欽明天皇の内裏があったという地元の伝承に由来している。

 

 

この磯城嶋金刺宮址に「磯城邑伝承地」の石碑が建てられたのは、磯城邑がまさに「磯城島」にあったとの推測に基づくものであろう。

ちなみに明治二十二年(一八八九)、近隣六村が合併して「城島(しきしま)村」が成立するのだが、大和志料はこの城島村を「城島は即ち磯城島なり」と記している。

磯城島とは初瀬川(大和川)と栗原川(忍坂川)が並走するように流れ、両川の間隔が狭まって中洲のような地勢を呈しており、或いは古代に川筋が入り乱れて文字通りの島を形成していたかもしれない。

または、河川から溝(水路)を掘って水を引き込み、磯城邑の環濠としていたかもと想像すると、確かに「磯城」という文字から受ける印象が、水上に浮かぶ城が如く思えてくる。

この磯城島とされる地域では「粟殿・三輪松之本・上之庄・東新堂」といった遺跡から実際に縄文時代の遺物が出土している。

さらに初瀬川の北岸に位置する志貴御縣坐神社の西隣、天理教敷島大教会や三輪小学校の敷地(三輪遺跡)からは石器や縄文前期の土器が出土している。

 

 

そして、この三輪遺跡に対し、磯城島を挟んで反対の南側にあるのが磐余邑なのである。

 

夫磐余之地、舊名片居片居、此云伽哆韋、亦曰片立。片立、此云伽哆哆知。逮我皇師之破虜也。大軍集而滿於其地、因改號爲磐余。

 

日本紀は磐余の旧名を「片居」もしくは「片立」だったと記すが、既に失われたのか、そのような地名があったかすら定かではない。

「片居」が片方の居住区という意味だとすれば、磯城島の両岸、北の「三輪」に南の「磐余」の集落も含めて「磯城」という古代都市を形成していたのかもしれない。

「磐余」の地名が最早廃れてしまったのに対し、「磯城」が式上郡式下郡、さらに現代では磯城郡として名が残っているのは、それだけこの地の歴史が古く、そして磯城が大きく有名だったからではないだろうか。

 

しき嶋の大和心を人問はば、朝日に匂ふ山桜花。

 

この本居宣長の歌と同じく、万葉集には柿本人麻呂「志貴嶋の倭国は言霊の佐くる国ぞ」とあり、「大和」に係る枕詞として「磯城島」は数多くの歌で詠まれている。

「磐余の大和」ではなく「橿原の大和」でもなく「磯城島の大和」とするのは、この地が日本建国の出発点として、日本人の記憶に深く刻まれたせいかもしれない。