古事記の丹塗矢伝説 | 東風友春ブログ

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前回「武茅渟祇」の記述から、山城の賀茂氏と大和の賀茂氏が共通の祖先より生じた氏族だと述べた。

それにはもう一つ加えたい理由があって、この二者が非常によく似た伝承を有しているからである。

 

賀茂建角身命、丹波の国の神野の神伊可古夜日女にみ娶ひて生みませるみ子、名を玉依日子と曰ひ、次を玉依日賣と曰ふ。玉依日賣、石川の瀬見の小川に川遊びせし時、丹塗矢、川上より流れ下りき。乃ち取りて、床の邊に挿し置き、遂に孕みて男子を生みき。

【釈日本紀】(鎌倉後期)より

 

これは山城国風土記の謂わゆる「丹塗矢伝説」を抜粋したものだが、これは玉依姫が川から丹塗り矢を持ち帰ったところ、妊娠して神の子(賀茂別雷命)を生んだというお話である。

この話に酷似した話が、古事記に記された神武天皇の皇后「媛蹈鞴五十鈴姫」の出生譚である。

 

然れども更に大后とせむ美人を求ぎたまひし時、大久米命曰しけらく「ここに媛女あり。こを神の御子と謂ふ。その神の御子と謂ふ所以は、三島溝咋の女、名は勢夜陀多良比売、その容姿麗美しくありき。故、美和の大物主紳、見感でて、その美人の大便まれる時、丹塗矢に化りて、その大便まれる溝より流れ下りて、その美人の陰を突きき。ここにその美人驚きて、立ち走りいすすきき。 すなはちその矢を将ち来て、床の辺に置けば、忽ちに麗しき壮夫に成りて、すなはちその美人を娶して生める子、名は富登多多良伊須須岐比売命と謂ひ、 亦の名は比売多多良伊須氣余理比売と謂ふ。こはそのほとといふ事を悪みて、後に名を改めつるぞ。故、ここを以ちて神の御子と謂ふなり」とまをしき。

【古事記】(七一二)より

 

この話は、九州から東征して大和を平定した神武天皇に、臣下の大久米命「神御子」と呼ばれる女性(媛蹈鞴五十鈴姫)がいて、皇后に相応しいと進言している場面である。

ここにも丹塗りの矢が登場するので、もう一つの丹塗矢伝説であると言える。

 

 

本居宣長「古事記傳」の中で山城国風土記の丹塗矢伝説を引用して「似たる事なり」と記している。

さらに神の子が生まれたという物語の骨子も基本的に山城国風土記と同じである。

三輪の大物主神三島溝咋の娘、勢夜陀多良比売に惚れ、その娘が便所で用を足していた際に、神が丹塗矢に化けて便所の溝から侵入して娘の下部を突いたので、娘は大層驚き矢を持ち帰って家の床の辺に置いたところ、その矢は美しい青年と化して二人は結ばれた。

こうして生まれたのが神の御子、媛蹈鞴五十鈴姫である。

ちなみにこの丹塗矢を持ち帰って家の床の辺に置くという描写は、古事記の原文に「乃將來其矢置於床邊」とあり、玉依姫が丹塗矢を「乃取插置床邊」とする山城風土記の丹塗矢伝説と似ている気がする。

しかし、山城国風土記では単に丹塗矢を川で拾ったとするのに対し、古事記では男根に見立てた丹塗矢が便所の溝から侵入して女陰を突くといった表現が、その後に続く神(大物主神)と人(勢夜陀多良比売)との性交を暗示させている。

又、山城国風土記と古事記では登場する人物名が悉く違っている。

例えば、神の子は山城国風土記では賀茂別雷神、古事記では比売多多良伊須氣余理比売(媛蹈鞴五十鈴姫)、神の子を生んだ姫は玉依日賣勢夜陀多良比売、神の子を生んだ姫の父は賀茂建角身命三島溝咋といった具合である。

もちろん、この二つの物語は似てはいるが、それぞれ別のお話であるという見方が一般的だ。

しかも山城の賀茂氏には先祖に神武皇后になられた媛蹈鞴五十鈴姫がいるなんて伝承は一切無い。

だが、新撰姓氏録に記された大和国の賀茂朝臣と同祖である「大神朝臣」の頁に「三島溝杭耳」と書かれていたのを思い出してほしい。

 

大神朝臣/素佐能雄命の六世孫、大國主の後なり。初めに大國主神、三島溝杭耳の女、玉櫛姫を娶ひたまひて、夜來りて曙に去る。

【新撰姓氏録】(八一五)より

 

この「三島溝杭耳」は、古事記に登場した勢夜陀多良比売の父(媛蹈鞴五十鈴姫の祖父)の「三島溝咋」とおそらく同一人物であろう。

三島溝杭の「三島」は、現在の大阪府高槻市三島江あたりの地名であり、神名帳には摂津国島下郡に「三島鴨神社」がある。

 

 

神名帳には同じく摂津国島下郡に「溝咋神社」があり、現在の大阪府茨木市五十鈴町に鎮座しているが、溝杭耳の「耳」が武茅渟祇の「祇」と同じく地域の首長を意味する語だとしても、「溝杭」が果たしてこの地域に存在した首長の人名なのか、はたまた地名なのかについては今なお釈然としない。

ちなみに媛蹈鞴五十鈴姫に関して日本書紀では次のように記している。

 

此れ、大三輪の神也。此の神の子は、即ち甘茂君等・大三輪君等、又、姫蹈鞴五十鈴姫命。又、曰く、事代主神、八尋熊鰐と化爲りて三嶋の溝樴姫、或いは玉櫛姫と云うに通いて、生みし兒は姫蹈鞴五十鈴姫命。是は神日本磐余彦火火出見天皇の后と爲す也。

 

庚申年の秋八月の癸丑の朔戊辰に、天皇、正妃を立てむとす。改めて広く華胄を求めたまふ。時に、人有りて奏して曰さく、「事代主神、三嶋溝橛耳神の女、玉櫛媛に共ひして生める児を、号けて媛蹈鞴五十鈴媛命と曰す。是、国色秀れたる者なり」とまうす。

【日本書紀】(七二〇)より

 

日本紀では歴史書としての体裁を気にしたのか、古事記に記された丹塗矢伝説のような物語は記されていない。

しかも日本紀では勢夜陀多良比売という女性は登場しない。

媛蹈鞴五十鈴姫の母は「三嶋溝樴姫或云玉櫛姫」又は「三嶋溝橛耳神之女玉櫛媛」となっており、古事記より新撰姓氏録の大神朝臣の伝承に近い記述となっている。

勢夜陀多良比売について本居宣長は「古事記傳」の中で「勢夜は地名なるべし。聖徳太子傳暦に勢夜里と云見えて、今大和国平群郡に勢夜村あり」と記している。

奈良県生駒郡三郷町には今でも「勢野」という地名が残るので「勢夜村」はこの辺りだったと考えられるが、残念ながらこの地に勢夜陀多良比売や丹塗矢伝説に繋がる痕跡は見当たらない。

玉櫛媛は勢夜陀多良比売の別名という見方もあるが、「魂奇し姫」や「瀬矢たたら姫」といった物語に則した呼称が用いられたのではないだろうか。