古代鴨氏物語[五]賀茂旧記と神山信仰 | 東風友春ブログ

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賀茂祭縁起によると、第四十代天武天皇の六年(678)に創建されたとする上賀茂社より、第二十九代欽明天皇の御世(六世紀頃)に始まったとする賀茂祭の方が歴史が古いことになる。

神社とは祭祀を行う施設であるが、祭とは祭祀そのものなので、祭礼の歴史が神社より古くとも不思議では無いのだが、このズレが賀茂祭縁起の信憑性を損ねているのも事実である。

ところで、賀茂祭の起源を考える前に「年中行事秘抄」が収録している別の賀茂社伝承を紹介したい。

 

賀茂の旧記に曰はく、御祖多々須玉依媛命、始めて川上に遊びし時、美しき箭流れ来りて身に依る有り。即ち之を取りて床下に挿す。夜、美男に化して相副ふに到る。既に妊身たるを知る。遂に男子を生む。其の父を知らず。是に於いて其の父を知らむが為に、乃ち宇気比洒を造り、子に酒杯を持たせ父に供へしむ。此の子、酒を持ちて天雲に振り上げて云く「吾は天神の御子なり」と。乃ち天に上るなり。

時に御祖神等、恋ひ慕ひ哀れ思ふ夜の夢に、天神の御子云く「各、吾に逢はむとするに、天羽衣・天羽裳を造り、火を炬き、鉾を祭りて待て。又、走馬を飾り、奥山の賢木を取りて阿礼に立て、種々の綵色を悉せ、又、葵楓の蘰を造り、厳かに飾りて待て。吾、将に来たらむ也」と。御祖神、即ち夢の教に随ひ、彼の神の祭に走馬ならびに葵蘰楓蘰を用いしむること此の縁なり。之に因りて山本に坐す天神の御子を別雷神と称ふ。

【年中行事秘抄】(鎌倉時代成立)より

 

この年中行事秘抄の伝承は、冒頭に「賀茂舊記曰」とあり、おそらくは社家がかつて有していた社記からの引用なので、以後この伝承を「賀茂旧記」と呼ぶことにする。

 

 

賀茂旧記では丹塗矢伝説に続いて、玉依姫の夢に別雷神が「天羽衣及び天羽裳を用意し、火を焚いて鉾を祭り、走り馬を飾り、奥山の榊を取りて阿礼に立て、種々の彩色を尽くし、葵や楓の蔓を造り、厳かに飾って待てば、吾は来るだろう」と教えたとあります。

別雷神が玉依姫に伝えたこれらの事は、別雷神が再び現世に「御生れ(御阿礼)する為に行う儀式だったことが分かります。

御阿礼(みあれ)とは、「祓詞」などの祝詞「御禊祓へ給ひし時に生(あ)れませる祓戸の大神等」の「あれ」と同じ語句で、神の出現や誕生を意味しており、現在でも賀茂祭(葵祭)に先立って行われる「御阿礼神事」は、この賀茂旧記の教えに則って「賀茂別雷神」の神霊を迎える儀式である。

御阿礼神事では、賀茂旧記「取奥山賢木阿禮とある通り、を阿礼(阿礼木)として立てるが、阿礼木とは御幣(みてぐら)であり、即ち神霊の依り代である。

この阿礼木は、賀茂旧記「造葵楓蘰嚴飾」とあるように、(桂のこと)で飾った神籬内に立てられる。

賀茂祭は、上賀茂社に迎えた神霊を勅使代斎王代が奉拝する形式であるため、この御阿礼神事が賀茂祭にとって謂わば根幹をなす儀式であるのは間違いない。

この御阿礼神事は、現代では賀茂祭に先立つ五月十二日の夜、上賀茂社後方の「御生野」神籬を設けて執り行われる。

ところが、座田司氏氏は「賀茂社祭神考」(1970)の中で、この儀式が原初は「神山(こうやま)の山上で行われていたのだろうと述べています。

この神山とは、上賀茂社から約2kmの距離に位置する標高約301mのお椀型の山で、この山の頂上には巨大な数個の岩石が密集して露出して立派な磐座を形成しており、「賀茂注進雑記」(1680)「或記云、神山加毛山同訓にして口傳あり、往昔此御神降臨まします所岩根あり、是を降臨石といふ。其神山御生所云々」と記し、「山城名勝志」(1705)には「河海抄云賀茂祭前日於垂跡石上神事御形御阿禮者御生也」とあり、この磐座は「降臨石」とか「垂跡石」と呼ばれ、神が降臨したと伝えている。

ちなみに上賀茂社では細殿前に二基の「立砂」が盛られているが、これは神山を模しており、この立砂の頂には松の葉を挿すことから、かつては神山山頂に阿礼木を立てて神事が行われたことを表現している。

 

 

座田司氏氏によると「一年に一度若しくは二度の降臨の際に、大体同一の場所に神座が設けられ、それが最初は山頂であったのが、後に山麓に移されて祀られた」として、当初は神山の頂上で祭祀のみが行なわれていたが、やがて祭祀の場を山麓に移し、さらに上賀茂社が造営されたために、阿礼木を上賀茂社に遷す「神幸」の必要性が生じたとしている。

しかしながら、上賀茂社に遷された阿礼木が本殿ではなく棚尾社遥拝所に立てられる事は、藤原頼長の日記「台記」の久寿二年(1155)四月の記事に「馬場立榊付鈴木綿、庶人或鳴之」とあることから、阿礼木には、現行の四手(紙垂)ではなく木綿を取り懸けて、それを参拝者に引かせて神人合一の状を提供したと考えられる。

この馬場に立てられた阿礼木は庶民が引く料だったようだが、棚尾社に立てられた方は、社伝では貴人が引く料であったそうだ。

座田司氏氏は、この阿礼木に木綿を取り懸けたものが、延喜兵庫寮式儀式に見える「阿礼幡」ではないかと述べている。

ちなみに下鴨社「連理の賢木」は御神木だが、この木にはが取り懸けており、参拝者はこの木の御利益にあやかって綱を引くことができ、阿礼木引きの状景を彷彿させる。

現在、各地の神社の拝殿に鈴と綱が吊ってあるのも、阿礼木引きと同じ理屈なのかもしれない。

 

また、座田司氏氏によると、阿礼木が上賀茂社の本殿内には奉安されずに棚尾社や遥拝所に立てられるもう一つの理由は、そもそも本殿が神山を遥拝する「遥祭殿」として建立されたため、そこに神霊を奉安するという概念が無かったからだと説明している。

座田司氏氏は、上賀茂社本殿が「社家の記録によれば天正の御造営の時まで、その背面の中央の間の破目板の外に扉形が取り付けられていた」ことから、それより昔は本殿背面に実際の扉を有しており、本殿は神殿ではなく遥祭殿であって、祭祀の対象はあくまでも本殿後方の神山だとしている。

興味深いことに、神山山頂御生所上賀茂社本殿とは、同一直線上に並んでいるのだ。

つまり上賀茂社は本来、神山を神奈備山もしくは神体山として、信仰の対象とする神社だったようだ。

 

 

天武朝に上賀茂社が営まれるより遥か昔から、神山やその山麓にて祭祀が行われていたのなら、欽明朝において賀茂祭が始まったとしても不思議ではない。

しかしながら、山城の賀茂氏が日本紀「葛野主殿県主部」旧事紀「葛野鴨県主」と記されることについて、少なくとも乙巳の変(645)以前は、山城賀茂氏の本拠地が「葛野」にあり、欽明朝には未だ上賀茂に進出していなかった可能性もある。

しかも、神山の磐座及び御生野付近(上賀茂遺跡)からは、縄文時代後期(約4500~3300年前)の土器片や石器が見つかっているのだ。

これらは、神山での祭祀に関係するものと思われるが、神武天皇の時代よりずっと昔の遺物であることに違いなく、だとすると、神山に降臨したとされる神は、果たして賀茂氏の神だったかという疑念が生じるのである。

座田司氏氏は、貴船川の上流に位置する式内社「貴布禰神社(貴船神社)」の司祭者である舌氏(壬生部)は、賀茂氏が上賀茂に来る前からの先住民であり、上賀茂社と貴船社との関係が深いことから、実は「川上より流れて来た丹塗矢の本体は貴布祢神、即ち別雷神の父神」だと述べている。

貴船神が別雷神の父神かどうかは別として、おそらく神山山頂での祭祀は先住民によるもので、上賀茂にやって来た山城賀茂氏は、これとは別に、神山を望む御生野を聖地と定め、新たにこの地で祖神の祭祀を始めたのではないだろうか。