【古代賀茂氏の足跡】野見宿禰と土師氏 | 東風友春ブログ

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土師氏の歴史は、姓氏録(815)に「土師宿祢、天穂日命十四世孫、野見宿祢の後なり」と記すように「野見宿禰」に始まります。

日本紀(720)は、野見宿禰が「相撲の始祖」であり、「埴輪の発案者」でもあるという二つの逸話を記しています。

垂仁天皇七年、野見宿禰は、天下の力士と評判だった当麻邑の「当麻蹶速」と対戦するため、出雲国から召されます。

奈良県桜井市穴師にある穴師坐兵主神社の摂社「相撲神社」は、野見宿禰を祭神とし、そこに「大兵主神社神域内小字カタヤケシにおきまして野見宿禰、当麻蹶速による日本最初の勅命天覧相撲が催されました」と書かれた「カタヤケシ由緒」なる案内板が設置されている。

この地は、垂仁天皇が営んだ「纏向珠城宮」の伝承地に近く、カタヤケシ由緒が伝える通り、野見宿禰と当麻蹶速の試合が、ここで催されたと考えても不思議ではない。

 

 

日本紀では、この時の試合の様子を則ち当麻蹶速と野見宿禰と捔力らしむ。二人相対ひて立つ。各足を挙げて相蹶む。則ち当麻蹶速が脇骨を蹶み折く。亦其の腰を蹈み折きて殺しつと記しています。

この試合は、我が国の国技である相撲の発祥とされているが、蹶速という名前やお互い蹴り合ったという表現からは、現代の相撲とは全く形式が異なる格闘技のように感じます。

ちなみに、勝者には当麻蹶速の地を奪りて、悉に野見宿禰に賜ふとしているが、蹶速の領地であった当麻邑は、石棺の材料になる凝灰岩を産する二上山が含まれており、土師氏が古墳造営の氏族となるのに有利な条件を備えたことになる。

 

 

そして、さらに垂仁天皇三十二年、皇后の日葉酢媛命が亡くなります。

垂仁天皇はこの先年、倭彦命を身狭の桃花鳥坂に葬った際に是に、近習者を集へて、悉に生けながらにして陵の域に埋み立つ。日を数て死なずして、昼に泣ち吟ふ。遂に死りて爛ち臰りぬ。犬烏聚り噉むという有様だったことに心を痛め、皇后の葬儀をどうすべきか悩みます。

そこで則ち使者を遣して、出雲国の土部(はじべ)壱佰人を喚し上げて、自ら土部等を領ひて、埴(はにつち)を取りて人・馬及び種種の物の形を造作りてとあり、野見宿禰は天皇に埴輪を献上し、殉死に代えてこれを用いることを進言します。

この出雲から来た土部の話を裏付けるように、三輪山周辺には出雲人が住んだという「出雲屋敷」という地名が、穴師坐兵主神社から東へ纒向川の上流や、狭井神社近くの狭井川上流などに存在している。

また、JR桜井駅から大和川(初瀬川)に沿って東へ、長谷寺で有名な初瀬の手前、三輪山の東南に「出雲(奈良県桜井市出雲)」という地名があり、野見宿禰に呼び寄せられた土部たちが暮らした土地だと伝わっている。

そこでは、今日でも「出雲人形」という土人形を作る家が残っており、野見宿禰を葬ったとする塚もあったそうだが、この墳墓は明治の農地整理で形を失い、現在は田地の中に塚跡の石碑が立てられている。

野見宿禰の墓とされる場所については、播磨国風土記(715年前後)にも「昔、土師弩美宿禰、出雲国に往来ひて日下部野に宿り、乃ち病を得て死にき。爾時に出雲国の人来到りて人衆を連ね立て、川礫を運び伝へ上げて墓山を作りき」とあり、この他にも全国各地に存在している。

 

さて、日本紀には、野見宿禰が作らせた埴輪について則ち其の土物を、始めて日葉酢媛命の墓に立つ。是の土物を号けて埴輪と謂ふ。亦は立物と名つくとあり、この話が「埴輪」の起源となっています。

しかし、日本紀では、野見宿禰が人や馬などの形象埴輪を作ったとあるが、考古学では、埴輪は弥生時代後期の吉備地方の墳丘墓から出土した特殊器台特殊壺が、円筒形埴輪に変化したものが起源と考えられており、人や馬形の埴輪が登場するのは古墳時代中期(五世紀頃)に入ってからで、埴輪が人馬の形に似せて作られたという話と矛盾する。

つまり、野見宿禰の伝説を、相撲埴輪の起源とすることには疑問点が少なからずあるのです。

 

 

ちなみに、日葉酢媛命の墓は、奈良県奈良市山稜町にある「佐紀陵山古墳」に治定されており、大正時代の盗掘でキヌガサ形埴輪盾型埴輪のあったことが知られるが、本当に日葉酢媛命の陵墓であるかは実のところよく分かっていない。

この佐紀陵山古墳のある佐紀古墳群の近くには、大和国添下郡「菅原(奈良県奈良市菅原町)」「秋篠(奈良県奈良市秋篠町)」に、土師氏の居住地がある。

この他、古市古墳群の造営に携わった「河内国志紀郡土師郷」や、百舌鳥古墳群の造営に携わった「和泉国大鳥郡土師郷」など、土師氏は古墳造営や葬送儀礼を担当することにより、大規模古墳群の近くに居住地を増やしていきます。

 

天皇、厚く野見宿禰の功を賞めたまひて、亦鍛地(かたしどころ)を賜ふ。即ち土部の職に任けたまふ。因りて本姓を改めて、土部臣と謂ふ。是、土部連等、天皇の喪葬を主る縁なり。所謂る野見宿禰は、是土部連等が始祖なり。

【日本書紀】舎人親王(720)より

 

垂仁天皇に埴輪を献上した褒美として、野見宿禰が賜った「鍛地(かたしどころ)」とは、「硬い所」か「硬い石」を連想し、石材か製鉄に所縁のある土地だろうが、個人的な意見を述べると、おそらく大阪府柏原市堅上堅下あたりだと考える。

大阪府柏原市の堅下は、古市古墳群の造営に携わった河内国志紀郡土師とは、大和川を挟んで対岸にあたる。

そして、河内国の土師郷は、天穂日命を祀った「土師神社(現在の道明寺天満宮摂社土師社)」や土師氏の氏寺である「土師寺(現在の道明寺)」があって、土師氏の本拠地だったと考えられています。

この道明寺天満宮は土師郷の中心地だったと考えられ、当社周辺からは、埴輪を焼いたと思われる五世紀以降の登り窯や、古墳造りに活躍したであろう全長8mの大修羅、大規模古墳群の近くで見つかるのが特徴の円筒棺墓などが発掘されている。

 

 

しかしながら、六世紀後半になると葬送儀礼が簡素化し、陵墓の築造が縮小され、土器の生産が衰退していくのにしたがって、土師氏の仕事が大幅に減っていくのです。

七世紀以降、各地の豪族たちは競うかのように仏教寺院を造りますが、土師氏もまた、時代の変化に適応するため、河内土師寺和泉土塔で有名な大野寺大和菅原秋篠には喜光寺秋篠寺を建立し、また、数多くの人材を大和朝廷に仕える官人として輩出して、氏族の生き残りを計ります。

 

 

ところで、延喜元年(901)菅原道真公は太宰府に左遷される途中、河内の土師寺で暮らしていた叔母の覚寿尼に会うため、この地を訪れます。

道真は、大和国添下郡菅原に居住した土師氏の子孫である。

続日本紀(797)の天応元年(781)六月条には、土師氏の祖業は元来、凶礼には凶事を掌どり、祭日には吉事に携わっていたが、今の土師氏は「専ら凶儀に預かる(専預凶儀)」だけになったとし、これは先祖の意に叶わないので「土師」から「菅原」への改姓を願い出て、これを許されたとある。

延暦十三年(794)平安京に遷都された時、菅原氏は桓武天皇の供をして都に入り、天皇より領地として賜ったのが「吉祥院(京都市南区吉祥院)」の地です。

吉祥院は、道真の祖父菅原清公が、遣唐使として唐への海上で嵐に遭遇した際に、吉祥天女の霊験により難を逃れることができたため、吉祥天女を当地の菅原家邸内に祀ったのが、地名の由来となったそうだ。

 

 

さて、この吉祥院は偶然にも、賀茂氏が葛城から移住して出来た「塔森村」の北に位置している。

これは、土師氏と賀茂氏が共に、もともと凶事(葬送儀礼)に従事した氏族であった縁によるものだろうか。