『ヒラリ、誰かと付き合ってるの?』
長い黒髪を耳にかけても、直ぐに風が浚っていって、またうっとうしい事になる。怪訝そうな顔をしていると、鈴が声をかけてきた。
『そうね、でもなんで?』
『なぜ、教えてくれないのよ、』
鈴は少し泣きそうな顔をして私を見る。
『なぜって、別に・・・聞かれなかっただけだし、それに自分から報告するような事でもないわ。それに、きっと噂になっているのでしょう?』
最近、大学の校内で、噂されているのは知っていた。だからって、私に向かって指をさしてくる輩にあれこれ注意するつもりもないし、特に気にもならなかった。むしろ、噂され、好奇の目にさらされている事が、私にとって一種の快感だった。
『ええ・・・、その、あなたが・・・』
鈴は、ばつが悪そうに、口籠もった。
『妻子のある殿方とお付き合いしている?』
私はわざと茶化してみせた。
彼女は目を大きくして私を見ていたが、やがて首を横に振った。
『だめよ、そんなの。ヒラリは、きれいなんだから、そんな人と付き合わなくたって・・・もっと他にいい人はいるでしょう?』
今度は、私が黙って、首を横に振る番だった。
誰でも良いのではない。あの男が好い。私は、彼と出会った時の事を思い出していた。
* * * * *
『竹久夢二』
視線をあげたら、偶然、その本を見つけた。竹久夢二という人物が、日本の有名な画家の一人である事は知っていたが、彼が描いた絵を見たことはなかった。とくに気にもとめず、その本を手に取り、ページをペラペラめくっていた。鈴のような、か弱い女性が描かれている。私は、彼女の事を思い出して、一寸笑った。
『その画家に興味があるのかい?』
いくつもの本を抱えて、私に声を掛けてきた男が居た。なれなれしく声を掛けてくるとは、不躾な男だと想った。
『いえ、特にないです、』
視線をそらせて、本を、棚に戻した。私のような女が、鈴に似た、か弱い女性の絵を見ていた。その事が、似合わない、と言われているような気がして、恥ずかしくもあり、同時に憤りを覚えた。
不機嫌そうな顔をしていたと想う。そんな私を見て、男はまるで拗ねた子供をなだめるかのように、優しく笑ってみせた。すると私は、突然、自分が子供であるかのように感じて、恥ずかしくなった。背を向けてその場から立ち去ろうとした刹那、男は、こういったのだ。
『待てど暮らせど来ぬ人を 宵待草の宵の月』
『え?』
男は、静かに、そしてとても優しい声でそう呟いた。私は、振りかえってその男を見ると、彼はにこりとするだけで、それ以上は何も言わなかった。そうして、今度は、男の方が背を向けてその場から立ち去ったのだ。
その場に立ちすくむ私は、彼の言った言葉を心の中で反芻していた。