〜Jutyの最後に選んでしまった“安楽死”について、

            もう一度私の思いを書いてみたいと思います。〜

  〜この事に関しては、母と向き合って、私の思いを伝えたかったんです。〜

  〜『伝えたい!』『伝えておかなければ・・・』と思っていたのに、

       一緒に考えたり、論じ合ったり出来る間には伝えられませんでした。〜

  〜伝える事が出来たのは、母が認知症になって、

         病状が進み、話の内容を理解出来なくなってからでした。〜

  〜その事を伝えた“お母さんへ”と題して毎週送っていた手紙も添えて

         私の思いをお伝えしようと思います。〜

 最初のお墓参りをしてから、繰り返し何度も最後の日の事がフラッシュバックして来て、その時の選択は間違っていたのではないかという思いで、Jutyに申し訳ない気持ちになる事が度々でした。亡くなって35年になる今でもその思いに変わりがありません。そう思って、落ち込んでいる時に生前の母にいつも同じ様に質問を投げ掛けました。『Jutyは幸せだったかなぁ?』・・・と。母は決まってこう返事してくれました。『幸せだったわよ!』と大きな声で返事してくれるんです。そうすると少しホッとして・・・その繰り返しでした。でも、本当に聞きたかったのは、その事ではありませんでした。『Jutyの最後に選んだ“安楽死”は間違っていたんじゃないかなぁ?』という疑問でした。でも、元気な頃の母には聞けなかったんです。『可哀想よ。』と言う父や母に促されてその方法を選ぶしかなかったと、父や母を責める事にはならないかと危惧したからです。だから、きちんと考える事が出来る元気な頃の母には、その事は聞けませんでした。

 時を経て、母は認知症を患い、自分の身の回りの事がドンドンできなくなり、介護ホームのお世話になる事になりました。母は、認知症になってから性格変化や行動異常というよりは、思考能力の低下が著しく、書く事、話す事、人の話の内容を理解する事が出来なくなって来てしまいました。時期を同じくして、世の中はコロナ禍。面会もガラスの扉を隔てて、短い電話での会話をするだけになってしまい、更にその症状を加速させてしまいました。少しでも刺激になればと思い、毎週面会に行く度に前日に用意したイラスト入りの手紙を母に渡しました。昔を思い出す事が、認知症の治療になる事が証明されていましたので、少しでも役に立てば・・・と思ったからです。主には、昔の思い出話で、私の小さい頃から、学生時代、社会人になってからと、毎週毎週少しずつ時間経過に沿って手紙を書き続けました。介護職員の方が読んで聞かせて下さる事もあった様ですが、母にはもらった物が何だかを理解する事も徐々に難しくなり、手渡された手紙を自室に持って行って、係の方がファイルして下さって目の前に置かれても目を通してくれていたのかも定かではありません。それでも、少しでも刺激になればと書き続けました。Jutyとの思い出も数ヶ月、迎い入れた時から、亡くなった後まで書き続けました。そこで初めて、『今話さなければ私の思いは一生言葉で伝える事は出来なくなる。』と言う思いで、Jutyの最後の選択は、間違っていたという私の思いを伝える事にしました。下記にその一部を抜粋で書かせて頂きます。

 2021年11月18日 記 最後にJutyを連れて病院に行った時の事を書いた手紙から・・・一部抜粋

(お墓を)訪ねる度、ジュティーの最後の日の自分の決断を後悔する思いで一杯になりました。むしろ年々、その思いが強くなりました。1本目の注射を終えて私の顔を見上げたジュティーは、『まだ頑張れるよ!』って伝えたかったんじゃないかと今でも思うんです。お母さんは、どう思いますか? 

 2021年11月25日 記 骨を家に引き取った後の私の思いを書いた手紙から・・・一部抜粋

でも、私が58歳になった時に右股関節を手術しなければならなくなり、その前には痛くて何ヶ月も歩くのが大変な時期があったりしたので、1年行ってあげられない事がありました。それで、放っておくくらいなら・・・と思い、自宅に仏壇とお骨を引き取る事にしました。結果として、引き取って来て良かったと今は思っています。今も毎日ジュティーが一緒にいてくれているみたいに思えて、心が落ち着きます。毎日、お水も変えてあげられるし、手も合わせてお話も出来ます。私は、ジュティーの最後の日の決断が間違っていたと今も思っているんです。だから、朝手を合わせてジュティーに『あの時、悲しい思いと怖い思いをさせてしまった事、ウンチを済ませてあげられなかった事、本当にゴメンね。』って言い続けています。

 “声に出してお互いの気持ちを伝え合う事”などと言って、ちゃんと声を出して伝えないと相手には伝わらない!・・・と常に思い、人に伝え、そうしようと思っている自分なのに、一番近くにいる人には自分の本音が30年位伝えられていなかったんです。伝えられたのは、もう母がその事を理解し、返事をしてくれる事が叶わなくなってからになってしまいました。母の答えは聞く事が出来なかったんです。それが解っていながら、それでも私は手紙という手段でやっと伝える事が出来ました。たとえ返事をもらう事が出来なくても、私の心から伝えないと終われなかったんです。それでも、私は伝えたかった。私の本音です。手紙として残し、日付も入っていますから、後で読み返した時に、その時の私と母がどんな状況だったかも判りますし、自分がこういう手段でしか出来なかった事を振り返る事が出来ます。

 私が“安楽死”に関する自分の考えを疑問ではなく、決断できるに至ったのは、さらに長い年月が掛かりました。2007年からPoohを、2010年からPuPuを飼い始め、犬に関する本をいくつか読んで、特にアニマルセラピストの資格を得ようと勉強し始めて、中級資格試験の課題に犬に関する読書感想文があったりしたので、犬の最期に関する本を多く読む機会を経て、『絶対に安楽死は選ばない。』という思いになりました。“犬はその最後の線引きを自身でする。”と確信しました。そしてそれをPoohとPuPuが自身で私に証明して行ってくれました。どちらとも『もう少し一緒に・・・』と思い続けながらの介護でしたが、本当に最期まで頑張ってくれて、でも今日も1日一緒に・・・と思っている私の思いとは裏腹に、本当にあまりにあっけなく、静かに息を引き取ってしまいました。

 Poohには、『食べられていたら必ず元気になるから・・・』と声を掛け続け、立てなくなってからも抱っこでご飯をお皿から食べてくれていました。急に食べなくなって、3日目に息を引き取りました。PuPuには、『本当によく頑張っているねぇ。もう少し、もう少しだけ一緒にいたい。』って伝えながら、頭を撫でたり、体を摩り続けました。2人共、ろうそくの火が燃え尽きて消える様に静かに息を引き取りました。どんなに愛おしくて、引き留めたくても出来ない時は来るのです。その事を2人は教えてくれました。2人共、『お姉ちゃんもこんな風に最後まで頑張りたかったんだよ。』って伝えて行ってくれました。正直言って、Poohの時も、PuPuの時も、最期は見ているのも辛くなるほど『辛いだろうに・・・頑張ってくれている。』と思った時は何度もありました。でもその時を離れずに過ごす事が出来て本当に良かったと私は思っています。日々、愛おしさが募った最後を過ごす事が出来ました。Jutyの時もこうしてあげれば良かった・・・今はそう思います。

 我が家のワンちゃん達は、言葉を話す事が出来なくても、その思いをきちんと私に伝えて行ってくれました。PoohとPuPuは、お姉ちゃんのJutyの思いも伝えて行ってくれました。言葉を話せる私は、母にズーッと思い続けた事を適切な時に伝える事が出来ませんでした。きちんと声を出して気持ちを伝えなきゃダメだよ・・・って私の愛犬達は私に教えて行ってくれたんだなぁ・・・と、反省の思いも込めて思っているバーバでした。