いよいよ最後は 一番多く使う千円札です!
こちらは北里柴三郎

病を未然に防ぐこと 

予防医学の重要性を説いていた方で

現代に最も重要な予防医学の先駆者


ヨーロッパの人口を激減させた

死の病気ペストを 日本で拡散させる

撲滅させた功労者まじかるクラウン


日本の医学の発展

大きな貢献を果たし🐾 たくさんの功績があり

日本細菌学の父とも呼ばれる方ですまじかるクラウン


慶應生なら誰でも知るところの

感動のお話もあり

福沢諭吉先生の友情 恩から

慶応大学医学部の創設に無給で貢献した

義にも篤い人として有名ですラブラブ

Story 

北里柴三郎氏は1853年

熊本県の庄屋に生まれます


明治8年に

東京医学校(現在の東京大学医学部)に進学

卒業後はドイツ留学でコッホ氏に師事

1889年には破傷風菌の純粋培養に成功

翌年には破傷風の抗毒素を発見します乙女のトキメキ


さらに 血清中に抗体を作らせる 血清療法

開発し世界を驚嘆地球させます*゚Q゚)ハヒィ

1890年には血清療法をジフテリアに応用し

同僚であったベーリングと連名で論文を発表

この業績により

第1回ノーベル賞の候補

柴三郎氏の名前が挙がりましたが…

受賞したのは共同研究者のベーリング氏でした

えー🤨

論文を機に世界の注目を浴びた彼は

欧米各国の大学や研究所から破格の待遇

ポストをオファーされますが‼︎

医学が弱い日本のために

国費留学した

と誘いを固辞して帰国日本

留学中に多大な業績をあげ

世界的 医学的に貢献した彼は


帰国後も好待遇で日本で研究できるに違いない

考え帰国すると…


びっくりパック な事が💦


北里氏は留学中に既に 脚気の研究を行っていて

東大教授 緒方正規氏の説に対し

脚気菌ではないと‼︎ 反論をしたことによって

何と?母校の東大医学部から恩知らず

睨まれてしまい研究も出来ない窮地へと


脚気は伝染病でなく 

ビタミンB1不足によることが明らかになり 

北里氏の指摘が正しかったことが証明されましたが 

イジメは止まず… 

帝大学長の加藤 弘之氏が

北里氏を 子弟の道を解さざる者といい 

森林 太郎(森鴎外)も情を忘れた人と非難 

帝大一派の北里イジメが行われたそうです


帰国後のポスト外し ノーベル医学賞の推薦外し

ペスト菌発見祝賀パーテイへのメンバー外し

伝染病研究所への非協力などなど 嫉妬って 宇宙人くん

このピンチに救いの手を差し伸べたのが

福沢諭吉先生なのですボクシング


帰国後 内務省衛生局に復帰していましたが

復帰とはばかりで 研究所はおろか

研究室さえも与えられず

半年近くも無為な日々を過ごしていました

そんな時 内務省のかつての上司の

長与専斎氏に「福澤諭吉氏に会ってみろ」

と勧められます


実は 長与氏は 前もって 北里氏の研究業績を

福沢先生に話されていました

「これだけ世界的に評価されている学者に

研究の場を与えないのは日本の恥である」と


福澤先生は「北里氏の研究がそのように重要なもの

なら 活躍の場を与えないのは国家の損失だ 

自分の私財を投げ打ち助けたい

申し出ていたのです

「とにかく小さくても仕事を始め

それから方策を考えればいい 

芝公園に土地があるから そこに必要な建物

造ってスタートしようじゃないか 

毎月の研究費も私が負担するから

費用を計算してくれないか」と提案‼︎


後で分かったことですが その土地とは 

福澤先生が娘の将来のために用意していたもの


そこに六部屋の小さな研究所を造り

それを足かがりにヨーロッパの大研究所

にも比肩する北里研究所を設け 

日本の伝染病研究の中心としての

地位を築いていきます

私財を投じて 伝染病研究所を作り

北里氏に研究の場を提供


私立北里研究所 を設立

様々な病気の血清療法を研究して行きます


さらに 福澤先生は広尾に

結核専門病院を建設

その運営を北里氏に委ねます


このとき福澤先生は 経営感覚に優れた

田端重晟(しげあき)という人物を

事務長として送り込んでいます

彼は後に 大きな役割を果たすことになる人物です

ところで 大きくなるとやって来る事が⁈


研究所は1899年(明治32年)

北里を所長に置いたまま国営に移され

内務省が管轄することに


福澤先生はこのとき

「国立にするのは構わないが 政府はいつ

気が変わるか分からないから 決して油断せず

金を貯えておくように」と忠告


福澤先生はその2年後に他界(ρ゚∩゚) グスン


そして福澤先生が心配した事が 

現実のものとなり


1914年(大正3年) 

北里氏の関知しないところで

この国立伝染病研究所を内務省から文部省に

移管することが決められますガーン


文部省に移管されれば 

研究所は東京帝国大学の支配下に入る 

それに納得できない北里は 即座に所長を辞任


北里は辞任に際し 所員に「ますます学問のため

奮励されることを望む」と語りかけました

しかし 研究員たちは全員が北里とともに辞職

北里氏を中心とした研究所は ここで消滅して

しまうかに思われましたが!

この辞職騒動のさなか 結核専門病院の事務長を

している田端重晟氏が北里のもとに

帳簿を持ってやってきましたそれを見ると 

驚いたことに 田端氏が蓄えた莫大な資金

記されていたのです札束札束札束


福澤先生が世事に疎い学者集団を心配

経理に強い田端氏を送り込んだことが

ここで見事に生きたのです


福澤先生は死してなお

北里を守り続けたのかもラブ

1915年(大正4年)

北里研究所

結核サナトリウムの空き地を利用して建設


本館の外観はドイツの

コッホ研究所を模しており

ヨーロッパの大研究所にも見劣りしない

立派なものになりました


北里研究所は 日本の伝染病研究の中心として

多くの実績を挙げていきます

北里氏は慶應の鎌田塾長から

医学科を新設したいとの相談を受け

即座に賛成‼︎

福澤先生から受けた恩顧に報いるのは

この時である」と設立委員会の中心となり 

準備を進めていきます

福澤諭吉先生没後15年目にあたる1917

慶應義塾大学医学科

(現在の慶應義塾大学医学部)創設

初代医学部長 付属病院長となりました

しかも無給

慶應義塾大学に医学部があるのは

北里氏のおかげなんです💕 


以上 お札刷新によって歴史を振り返ってみました

3人方 それぞれ  様々ですが 何方も

素晴らしい功績 時代の先駆者で 

友人に恵まれた方々だと思います♪


今日も楽しくハッピーな1日にチューリップ


Love & Thank U 女の子ラブラブ