芋煮会 歴史 年表 ①
l 江戸時代
o 山形藩(現・山形県)において、最上川の舟運に関わる人たちが野外で鍋料理をするようになった。呼称不明。これが現在の山形の芋煮会の源流の1つとされる。すなわち山形県では、「農村の収穫祭」を起源としない。
o 会津藩(現・福島県)において、「きのこ山」と呼ばれる野外での鍋料理が行われるようになった。これは「農村の収穫祭」を起源とし、現在の福島県の芋煮会の源流の1つとされる。
o 仙台藩北部、松島丘陵より北側の古川~石巻間(大崎地方ほか)が鶏卵の集散地となった(現在の芋の子汁:鶏肉・醤油味エリア)。
l 1960年代の高度経済成長期、第一次ベビーブーマーが成人する前後の時代にレジャーブームが到来すると、「農村の収穫祭」であった芋煮会は、郡部から市部に大量に移住してきた人たちを中心として、海岸・河川敷・広場・レジャー施設など、市部の当時のルールなら火気使用可の場所にて各グループ毎に構成員が食材等を持ち寄って開催されるようになった(現在のルールならば火気使用厳禁な地でも、当時の緩い規制により自由に開催されていた)。
東北各地から人が集まる仙台圏の人口は、戦前は50万人に満たなかったが、当時は70万人を超えて毎年人口増加が激しくなり、仙台市電(1976年廃止)等で容易にアクセスできる広瀬川河川敷で芋煮会を行うには場所取りが非常に困難になり、奥羽山脈に近い国鉄(現・JR東日本)仙山線(せんざんせん)・奥新川(おくにっかわ)駅(仙台駅から約1時間)周辺のような山奥にまで遠征して芋煮会をするような状態になった。そんな中、宮城県宮城郡宮城町(みやぎまち。現・同県仙台市青葉区)の国鉄仙山線・愛子駅(あやしえき。仙台駅から約30分)近くにあった「河鹿荘」(かじかそう)が、付近の広瀬川の河原を芋煮会場として提供開始した。より仙台市都心部に近い愛子駅から徒歩圏にて私企業が、食材等を準備し、参加者の手間を軽減した「手ブラで芋煮会」を商品開発したことは、従前の芋煮会の常識を覆した。すると仙台圏では、河原に限らず敷地内での「手ブラで芋煮会」のパッケージ商品を温泉旅館やレジャー施設も販売するようになり、マイカーのモータリゼーション進展と送迎バスのサービスもあって、鉄道駅周辺の芋煮会場を次第に凌駕して広まっていった。