武者絵 歴史 浮世絵武者絵
初期から浮世絵の終期にあたる明治時代まで、多数の浮世絵師によって描かれている。初期では、菱川師宣による墨摺絵(すみずりえ)「大江山酒吞童子」(おおえやましゅてんどうじ)18枚組などが知られ、その後、奥村政信(おくむら まさのぶ)や鳥居派らによる丹絵(たんえ)・漆絵(うるしえ)などに、武者絵馬の系譜を引いた武人の活躍が力強いタッチで描かれた作が見られる。また版本では、軍記物の中から英雄達が活躍する場面を抽出したヒーロー図鑑のような絵本のほか、頼光や義経、為朝ら特定の英雄を扱った一代記ものの草双紙(くさぞうし)が多く作られ、絵巻物類は子供の教育的役割も果たした。多色刷りの錦絵の時代になると、勝川春章(かつかわ しゅんしょう)に続く勝川派の絵師たちが一枚物の武者絵に多くの筆をとった。しかし、江戸幕府による長い平和の時代には、武者絵は、故事伝説、芝居上という印象が強く、しばらくは発展しない状態が続いた。
だが、寛政の改革以後、幕府が軟文学や好色本の取締まりをし始めると、武士的倫理を鼓吹する曲亭馬琴(きょくてい ばきん)の著す読本の流行と相まって、武者絵ブームが招来する。そのきっかけとなったのは「太閤記」の流行だったが、江戸幕府の禁令によって、徳川家や天正年間以降の大名家を描くことは禁止されていた。『市中取締類集』(しちゅうとりしまりるいしゅう)によると、川中島の戦いは天正以前なのでお咎めはなかったが太閤記はご法度であり、文化元年(1804年)『絵本太閤記』を錦絵にした喜多川歌麿らは処罰されている。しかし、これらの事柄は売上が期待できたため、天正年間以前の表面上よく似た事件に仮託して描く手法が発達した。例えば、当時人気画題であった本能寺の変は、土佐坊昌俊(とさのぼう しょうしゅん)が源義経に夜襲をかけた堀川夜討に、朝鮮での虎退治で知られる加藤清正は、武内宿禰や和藤内(わとうない)に仮託され、本来は別の事柄を描いていることを示すため、名前をもじったり、家紋や武器、兜などその人物を象徴するシンボルを絵の中に潜ませる事で規制をすり抜けている。
文化文政期に勝川春亭(かつかわ しゅんてい)が三枚続の武者絵を多く手がける。次いで歌川国芳(うたがわ くによし)が、当時「武者絵の国芳」といわれるほどの評判を得て、画面からはみ出さんばかりの力強く勇壮な作品を数多く描き、武者絵は最盛期を迎えた。その図様は絵馬だけでなく、幟(のぼり)や半纏(はんてん)、印籠、扇子、凧(たこ)などにも描かれ、こうした身近な物だけでは飽きたらず、自らの身体に武者絵の刺青(いれずみ)を彫ることが流行する。